8捕 「いわば警察手帳をもったゴロツキ」
何のことかといえば、「衛府」の役人。
前述の三善清行は「悪僧」と「衛府の役人」が社会の害悪と非難していますが、
彼らのやっていたことは、酒宴に勝手に入って、喰い散らかすなどであり、やっていることは群盗と同じ。
だそうです。
今、警察が酒宴に勝手に入って食い散らかしたら大騒ぎですよね。
「衛府」が武士の起源という説を唱える学者もいますが、「衛府」はあくまでも警察組織であり、軍人ではない。
軍人は警察になれるかも知れないが、警察は軍人にはなれない、というのが著者の主張です。
群盗対策として期待されたはずの衛府がそんなだったから宇多天皇が「滝口の武士」を必要としたわけです。
(こっちは正式な「武士」。平将門も滝口出身です。)
9二 「その身は浮雲の如し」
乱の最中、将門が敵の平貞盛(甥)の所在を藤原一族に尋ねた時の返答がこれ。
しかし、これこそ、「王臣子孫の居住形態」を最も端的に語った言葉だそうです。
王臣子孫たちは船や馬を駆使して、定住せず流浪していました。
彼らの故郷は「京」でもあり、「地方」でもありました。
つまり、京都出身の「王臣たち」+地方の「古代豪族」。
これが彼らの婚姻形態の基本で、京都では食い扶持をなくた王臣たちも、その貴種性から古代豪族に必要とされたのです。
「古代の武人は中世の武士とつながらずに消えた」と概念は間違いで、
彼らは王臣子孫(源平)を看板に掲げ、その下の家人の層に潜んでいた、というのがホントのようです。
このあたり調べたら面白そうですねー。
先発: 「すべての始まりは墾田永年私財法だった。」
743年、聖武天皇は「墾田永年私財法」を発令。
この法は、公地公民を前提としていた奈良時代において、「土地の私有化」が認められるという画期的な法律…
小学校ではこれにより「百姓に開墾意欲を持たせた」と習ったような気がしますが、
実際は「権力者が猛然と墾田を開発、集積」なんですね。
つまり、「墾田永年私財法」は、百姓にとっては「開墾した田地を私物にできる」法令でも、
権力者にとっては、「百姓に開墾させた田地を私物にできる」法令
だったのです。
その一番の「権力者」は「院宮王臣家」。
(「院宮王臣家」=「皇族」+「貴族(三位以上の上級廷臣)」+「準貴族(五位以上の中級廷臣)」)
当時の法体系において、彼らは何をやっても処罰されることがなかったため、やりたい放題。
王臣家の従者が百姓たちを囲い込んで墾田させる姿は「狂気」を孕んでいたとのことです。