5中 「桓武の皇子・皇女は何と三十二人を数える。」
奈良時代には親王不足が問題でした。
しかし、
平安時代が荒れた元凶は桓武天皇の子だくさん
でしょう。
なんせ32人も親王がいれば、食い扶持に困るじゃないですか。邪険にも扱えないでしょうし。
というので、しょうがなく役職を与えたのですが、そんなみんな優秀なはずない(笑)。
行政に「深刻な」影響を与えるレベルだったので、淳和天皇時の826年に、親王を八省の長から外す代わりに「上総、常陸、上野の三カ国の長官」という名目を用意しました。
これが「親王任国制度」の始まりです。
のちに臣籍降下した平氏はこれらの地域で力をつけていくのですね。
平氏の祖である高望王は文人でしたが、貴種である彼のもとに国司や郡司、東国の気風・文化などが結合して、瞬く間に坂東武者たちが跋扈する社会が形成されていくのです。
ちなみに、桓武天皇皇子の嵯峨天皇は子女が47人。
桓武天皇の五世孫の、平将門が「自分は王にもなり得る」と考えたのはこうした血筋からです。
6指 「“意識高い系”の皇帝を演じた。」
誰のことかと申しますと、嵯峨天皇息子「仁明(にんみょう)天皇」。
914年に三善清行が醍醐天皇に提出した「意見十二箇条」では歴代天皇の放漫財政に苦言が呈されていますが、
「飛鳥~奈良時代に無闇に仏教が流行し、全国の国分寺・国分尼寺の造営などで天下の富の10分の5が消えた。」
「次に、桓武天皇が巨大な宮都を二度も造って、残る富の5分の3が消えた。」
「そして仁明天皇が奢侈を好み、美麗に飾り付けた宮殿で、前代未聞の豪華さで行う宴会を繰り返し、残る富の2分の1が消えた。」
というのです。
仁明は「文章経国」という思想を持ち、「素晴らしい漢詩文を作ることで礼の秩序を維持、向上させることができ、国家が繁栄する」と本気で考えていました。
これに費やした費用がバカにならないのですが、本人が悪いことをしている自覚がないだけにこういうタイプは困ったものですよね・・・。
7三 「将門の方が穏便なくらいだ。」
実は将門の乱以前から国司の殺害や国衙の襲撃はありふれた事件になっていました。
将門は「国司を殺していない」ので、「むしろ穏便」
なくらいだそうです。
ただ、将門が他の件と決定的に違ったのはその「規模」と「新皇」を名乗ったことでしょう。
889年の「物部氏永の乱」が12年も続いたように、大抵のことには目をつぶっていた朝廷でしたが、将門の「新皇宣言」は朝廷が引いていた「一線」を超えました。
のちに頼朝が天皇を名乗らなかったのは、将門の失敗例を学習しているからです。
そして将門は、常に「単純」。
王臣子孫である自分は地方社会の「まとめ役」であると信じ、紛争に出向いては事情を調べずに「仲直りせよ」と言い、相手に頼まれたら頼まれた相手に肩入れして敵対相手を「脅し」、相手が従わないと、深く考えずに「襲撃」。
(今でもこういう人、職場や地域などにいるんじゃないでしょうか?)
そして徐々に規模が拡大し、「国衙を1個倒すのも8個倒すのも同じ」となって、「自分は天皇の子孫だからこれくらいはしても良いはずだ」となってしまうのですが、良いはずがないですよねー。
ただ、この将門の行動こそが王臣子孫の「たち」の悪さを端的に表しています。
(こんなタイプの人がうじゃうじゃ居たのですね。)