~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【飛鳥時代×略年表2:乙巳の変の黒幕は誰だ?舒明、皇極夫婦の時代。】

推古天皇の後は、舒明天皇、そして皇極天皇となる。第1回遣唐使などは舒明天皇の時期であるが、蘇我蝦夷全盛期でもある。その専制に対して「乙巳の変」が起きた(645)、というのが通説ではあるが、どうもそんな単純な話ではなさそうだ。【古代史講義:コチラも

第34代:舒明天皇期(628年~641年)

【舒明天皇】…敏達天皇(30代)の孫(といっても推古天皇の先妻の系統)、蘇我蝦夷の妹の夫。山背大兄王(聖徳太子息子)も候補であったが、蘇我蝦夷の力で就任(諸説あり)。この時期に、蘇我氏の勢力は最大となったとも言われている。

628 舒明天皇即位。

630 第1回遣唐使が派遣される。犬上御田鍬。

(※遣唐使は前半では北路中心であったが、新羅との関係が悪化してからは南路が用いられた。)
641百済でクーデター

one more:632年、第1回遣唐使が旻と共に帰国。

【旻】…古代の学僧。608年、小野妹子に従って中国に渡り、留学生活 24年の間、仏教のほか易などを学び、632年遣唐使犬上御田鍬に従って帰国した。彼の易の講義は中大兄皇子や中臣鎌足ら大化改新の主導者や蘇我入鹿も聴講した。のち、改新政府発足にあたって国政諮問機関である国博士となる。653年没。

♨ずいぶん、すごい人生だ。

and more:640年、高向玄理が帰国。

【高向玄理】…古代の学者。渡来人の子孫。608年、小野妹子に従って中国に渡り、隋、唐に学んだ。留学すること32年、640年に帰国。645年の大化改新では国博士に任じられ最高顧問となり、646年には新羅に派遣された。654年第3回の遣唐使に押使として入唐。654年客死。

♨大化の改新で国博士として国家システム建築に活躍した旻と高向玄理はよく出題される。

第35代:皇極天皇期(642年~645年)

【皇極天皇】…在642~645年。舒明天皇の后であった。何気にキーパーソン。何より天智・天武両天皇の母といわれる。

642 皇極天皇即位。今度も山背大兄王はならず。

高句麗でクーデター

(※淵蓋蘇文が唐との対決を決意し、穏健派を多数殺害し、軍事政権樹立。百済と結んで新羅侵攻した。新羅は唐に救援を求めるも唐が要求した女王交代の採否をめぐって内紛となる。640年は日本も含めて東アジアで動乱が相次いだ。 )

百済で政変

(※王族同士の内紛が瘧、義慈王が独裁。)
643 蘇我入鹿が聖徳太子息子の山背大兄王を襲い自害させる⇒古人大兄皇子が皇太子に。

(※権力強化のためという説もあるが、皇極天皇の命令という説も?!
645 乙巳の変(~大化の改新)

★中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺して政治改革を行うという説がこれまで主流であったが、その元となった「日本書紀」は天武天皇が編纂を命じて作ったものであるので、中大兄皇子が悪く書かれている可能性がある。

乙巳の変の黒幕は軽皇子(のちの孝徳天皇)という説が学会では主流に。軽皇子は皇極天皇の弟であり、本来は天皇になどなれる身分ではなかったが、皇極天皇即位によりチャンス到来とみて、政敵となる古人大兄皇子のバックの蘇我氏を倒すべく中大兄皇子を使って討った、という見方がされている。

※中臣鎌足の息子である不比等が主に編集に携わったとされる『日本書紀』では中臣鎌足の助言により、まずは叔父の軽皇子が孝徳天皇として即位して、中大兄皇子は皇太子となったとある。皇太子である蘇我氏の血を引く古人大兄皇子は謀反の疑いで殺害された。都は難波(=大阪市)に移され、この時、皇極天皇の権力も孝徳天皇に簒奪されたと考えられる。もし中大兄皇子が実行したとするならば、この時点で中大兄皇子が皇太子になっていたのではないかと考えられるが、実際は、そうではないため、黒幕孝徳天皇説となった。

古代史講義戦乱篇/乙巳の変はコチラ

古代史講義/蘇我氏とヤマト王権(後)

画像はwikipediaより。江戸時代、住吉如慶・具慶の合作によって描かれた「乙巳の変」。

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徳川慶喜のやる気」など、この方の他の項も読みましたが、実に理論的で素晴らしい。世に出ているどの書籍、動画よりもわかりやすい、と思うくらい。

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