~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「古代史講義(ちくま新書)第4講」より「飛鳥・藤原の時代と東アジア」(日本大学文理学部教授、中村順昭先生)です。

7世紀後半は豪族連合的なヤマト政権が天皇を頂点とする官僚制的な国家へと変貌する時代でした。

中国では隋・唐という統一国家が生まれ、朝鮮半島では高句麗、百済を打ち破った新羅による統一が進んでいました。

そして、日本も701年の「大宝律令」制定で一応の律令完成を見せます。

しかし、これは中国を手本としながらも、中国とは異質のものでした。

645年 乙巳の変~大化改新
(蘇我入鹿、古人大兄皇子vs孝徳天皇、蘇我倉山田石川麻呂、中大兄皇子)


653年 難波朝廷で分裂騒動
(孝徳天皇vs中大兄皇子、皇極上皇)


658年 阿倍比羅夫による北方遠征


661年 斉明天皇急死


663年 白村江の戦い

大化改新

近年の変更点

★蘇我入鹿暗殺を「乙巳の変」、その後の一連の政治改革を「大化改新」と両者を分けるようになった。

★646年正月に出されたとされる「改新の詔」は日本書紀編纂段階に大幅な修正が行われたことが明らかにされた。

「蘇我氏vs天皇家」ではない。蘇我氏の中でも蘇我倉山田石川麻呂がクーデター側についていること、クーデター後に古人大兄王が殺害されていることから、蘇我氏内部、王族内部で対立が生じている。

★クーデターの中心人物に軽皇子(のちの孝徳天皇)が挙げられるようになった。

政変後の政治で行われたこと

ほぼ確実なのは、

難波への遷都。(朝鮮半島の変動により早く対応するため)

②皇極天皇退位と孝徳天皇即位、阿倍内麻呂が左大臣、蘇我倉山田石川麻呂が右大臣となった。

(皇極が自分の意思で退位したのかどうかは判別が難しい。退位したケースはこれが初めて。)

③647年に13階、649年に19階と冠位の改定が行われた。

孝徳天皇期に全国的に評制が施行された。

(評と言う行政単位を設け、評の官人となる地方豪族は地方行政に専念させ、中央官人となるものとを分けた。また、役夫動員の体制作りにもつながった。)

難波宮は大阪城とほぼ同じ位置

難波朝廷での分裂(653年)

★中大兄皇子は飛鳥への遷都を求めて孝徳天皇と対立。皇極天皇らとともに諸豪族を引き連れて飛鳥に戻った。

★孝徳天皇は654年に没する(享年59歳)。皇極天皇が重祚して、斉明天皇となった。

阿倍比羅夫による北方遠征(658年)

★船団を率いて秋田・津軽まで服属させる。

★北方探検の意味合いがあったと考えられる。高句麗と倭国の位置関係を知る必要があったと推測する

♨混同しがちではあるが、渟足柵、磐舟柵は647年、648年に出来たものであり、孝徳天皇の時代。阿倍比羅夫によるものではない。【コチラ:東北経営の基地まとめ

斉明天皇急死(661年)

★百済滅亡後、残存勢力の応援要請を受けて自ら九州まで赴くが急死。

白村江の戦い(663年)

中大兄王は正式に即位しないまま大軍を送り、敗北

★以後、大宰府周辺に大野城や水城を構え、防人(さきもり)を充実させるなど防衛体制を強化した。

戦いに勝つことが目的ではなく、危機を煽って中央集権狙いであったという説も有り。

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