~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

古代史講義戦乱篇(2019)』より。成蹊大学教授、有富純也先生。

近年、「大化改新虚構論」が喧伝されているが、真相はどうか。

①大化改新虚構論
②640年代の東アジア情勢
③上宮王家滅亡事件(643)
④蘇我倉山田石川麻呂事件(649)

⓪「乙巳の変」概要(日本書紀が中心)

★645年6月12日。蘇我倉山田麻呂が「三韓表文」を読む際に計画された。(三韓=高句麗、新羅、百済)何らかの外交儀礼の最中であった可能性が高い。

★中大兄皇子、中臣鎌足は武装して機会を窺っていた。皇子の従者、佐伯子麻呂は緊張して入鹿を襲うことができず、山田麻呂も声が震える。

★入鹿が不審に思い、山田麻呂になぜ震えているのか尋ねたところを、中大兄皇子、佐伯子麻呂が入鹿に斬りかかる。

★入鹿が皇極天皇に「私に何の罪があるのか」聞くが、中大兄皇子が入鹿が皇位簒奪しようとしていることを述べ、暗殺の正当性を主張。

★それを聞いた皇極天皇は奥に入ってしまい、入鹿は結局、斬り殺される。

★中大兄皇子は蘇我氏の反撃を予想して軍勢を整えたが、入鹿の父、蝦夷は翌日、自邸を焼き、自決。蘇我本宗家は滅亡した

基本的なことだけど、蘇我本宗家が滅亡しただけで、他の蘇我氏は滅亡していないからね。【コチラの書籍も

★とはいえ、「日本書紀」は蘇我氏を悪役として書いている。日本書紀以上の情報を得ることは難しい。

①大化改新虚構論

★かつてはこの政変は「大化改新」と一括されていたが、現在では645年の政変そのものを「乙巳の変」と呼び、その後の一連の政治改革を「大化改新」と呼んでいる。

★戦後の古代史研究は大化改新虚構論が盛んであったが、出土した史料などから近年は大化改新の画期性を再評価する傾向にある。

★ポイントとしては大化改新と「乙巳の変」をセットとして考えるのではなく、一連の政争の一部として「乙巳の変」があったと考えることである。

★蘇我本宗家滅亡は日本書紀が大袈裟に盛りすぎているように思える。

②640年代の東アジア情勢

★入鹿が殺された後、蘇我氏に近かった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)が、「韓人、鞍作臣(入鹿の別名)を殺しつ」と述べている。この発言に対して、日本書紀では「韓政に因りて誅(つみ)せらるるを謂ふ」と注釈を入れている。当時の朝鮮半島、東アジア情勢はどうであったか。

東アジア動乱略年表

641百済で義慈王が即位
642義慈王自ら新羅へ侵攻、40以上の城を落とす

高句麗で泉蓋蘇文(せんがいそぶん)がクーデターを成功。高句麗王はじめ多くの貴族をも殺害。
643新羅の善徳女王、百済の攻撃に対して金春秋を高句麗に派遣して援軍を求める

しかし、高句麗はこれを拒否。逆に百済と結んで新羅を追い詰めようと試みる。
645唐は 泉蓋蘇文 のクーデターを口実に高句麗征討を実行

いくつかの城は落とされたが、最終的には唐が撤退
647唐 対 高句麗

またしても唐が撤退
648唐 対 高句麗

またしても唐が撤退
649新羅は親唐路線に切り替える

唐は女王交代を提案して新羅と関係が悪化していたが、方向転換

★640年代の朝鮮半島の混乱の原因は唐が北方政策に区切りをつけ、朝鮮半島政策を活性化させたことが最大の要因。

★石母田正氏は「大臣独裁の高句麗」、「国王専制の百済」、「貴族合議の新羅」と分類している。

★ヤマト朝廷は朝鮮半島の動乱に対して、これまで考えられたよりもより敏感であった。

③上宮王家滅亡事件(643年)

「乙巳の変」だけが有名であるが、この事件も政治主導権をめぐる争いとして同列であろう。

★643年11月、蘇我入鹿が斑鳩に住む山背大兄王(聖徳太子息子)を襲撃した。この戦いは蘇我本宗家と上宮王家の生き残りを賭けた争いである。

朝鮮半島の動乱に対して、いち早く中央集権国家を構築して対応しようと考えていたのが、蘇我入鹿であった

★蘇我入鹿は古人大兄皇子を王位に就任させ、高句麗型の立場を狙っていたと考えられる。

事件の背景

★推古天皇時代は推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の三頭政治により安定していた。

★しかし、彼らの死後、政局が不安定に。蘇我氏も田村皇子(舒明天皇)派(蝦夷ら)と、山背大兄王派(蝦夷の叔父ら)に分かれていた。

④蘇我倉山田石川麻呂事件(649)

同じく、この事件も政治の主導権争いと言う点で乙巳の変と同列に考えるべき。

★改新政府の右大臣に任命されていた蘇我倉山田石川麻呂(三韓表文を読んだ)であるが、謀反の疑いを問われた。

★飛鳥まで逃亡し、自分が建立した山田寺で妻子らと自害。

写真はwikipediaより。山田寺といえば、興福寺の僧兵たちに強奪されたと考えられる山田寺仏頭である。

658年の有間皇子謀反事件も新政に不満をもつ豪族が背景にあると考えられる。【有間皇子:wiki

国内の動乱略年表

592崇峻天皇暗殺、推古天皇即位
593推古天皇死去、境部臣摩理勢(蝦夷叔父)殺害、舒明天皇即位
642皇極天皇即位
643上宮王家滅亡事件
645乙巳の変、皇極天皇退位、孝徳天皇即位
649蘇我倉山田石川麻呂自害
655斉明天皇即位(皇極天皇重祚)
658有間皇子(孝徳天皇皇子)謀反事件
663白村江の戦い

コチラも:舒明、皇極天皇時代

古代史講義

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