~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

『古代史講義戦乱篇(2019)』より。 文化庁文化財第二課主任文化財調査官、山下信一郎先生。奈良時代を一言で言うと、「血みどろ」。

①長屋王の変
②長屋王の変をめぐる諸説
③長屋王という人物

①長屋王の変

729年2月12日、左大臣・正二位という当時、政府における最高権力者の地位にあった長屋王が「謀反」の疑いで失脚。妻、子供4人とともに平城京の自邸で自害した。

「長屋王の変」経過(続日本書紀)

★密告から自殺までわずか3日間というスピード処理
★同じ妻子でも藤原不比等の娘および彼女が産んだ子供は死を免れた
★連坐制が適用されなかった
★冤罪であることも書かれている

2月10日平城京左京の住人2人が長屋王が密かに人民を惑わすまじない(左道)をしていると密告

★政府はその夜、東国に通じる三関を固守
★藤原宇合は中央軍(六衛府)を率い長屋王邸を取り囲む
2月11日午前10時頃舎人親王、藤原武智麻呂らが、長屋王邸に派遣され尋問
2月12日長屋王自殺。妻の吉備内親王、子供4人も自殺
2月13日長屋王、吉備内親王を生駒山に丁重に葬る。
2月15日全国の国司に長屋王の変を告げ、不穏な動きを封じるために人民の集会を禁止した。
2月17日長屋王の与同者7人が流罪、その他90人は赦された。
2月18日長屋王の兄弟、親戚らは連座の罪を赦された。
2月21日密告者に褒美が与えられた。
2月26日長屋王の兄弟に対して従来どおりの給付を約束。
738年7月10日長屋王を密告した中臣東人が大伴子虫に斬殺される

※東人は長屋王を陥れるためにわざと事実を偽ったことが記され、もともと長屋王に仕えていた子虫が激怒して斬殺。2人は隣同士の役所に勤め、仕事の合間に碁を打っていたという。

②長屋王の変をめぐる諸説

一般的には皇位継承問題をめぐる「藤原氏の陰謀」として知られているが、「聖武天皇」こそ黒幕?という考えも浮上。いずれにしても、サラブレッドであり、強大な王家であり、大量の皇子を輩出していたからこそ長屋王は警戒され、排除された。

河合敦先生の変と乱の日本史はコチラ

【岸俊男先生(1957)】

藤原光明子(聖武天皇の妻の1人)を皇后につけようと目論む藤原氏がこれに反対するであろう長屋王を除いた政変とする説。

727年、聖武天皇と光明子の間に息子が生まれたが、翌年死んでしまった。聖武天皇と県犬養宿禰広刀自の間に皇子はできたが、このままでは藤原氏は外戚の立場を失う。そのため、皇子が生まれなかったら光明子を皇后から天皇に即位させるプランを考えていた。しかし、律令の規定では光明子は内親王ではないので皇后になれない。「太夫人」称号事件(下記)からも窺える長屋王の性格からして光明子の立后は認めないであろうから「邪魔者」であるとして殺害したという説も。事実、729年8月に光明子は立后。

【寺崎保広先生(1999)、木本好信先生(2013)】

長屋王及び妻の吉備内親王との間に生まれた男子が皇位継承の有力候補となる可能性があり、それを藤原氏が恐れたために濡れ衣を着せて王夫妻と男子を殺害した。

【河内祥輔先生(1986)】

母が皇女ではなく藤原氏出身である聖武天皇は皇統として劣等感をもっていたうえに、自分の皇子は死に、多くの男児を産んでいた長屋王家を脅威に感じていたという説。(藤原氏が軸ではなく、聖武天皇を軸とした点が画期。)

【金子裕之先生(1988)、早川庄八先生(1993)】

出土した木簡から長屋王自身が親王として扱われており、皇位継承の有資格者だから抹殺された説。

※ただし、寺崎先生は50歳にもなる長屋王を若き聖武天皇の後継者とする見方に懐疑的。

【大山誠一先生(1993)】

長屋王と吉備内親王の間に生まれた皇子たちの排除が真の目的。

【森公章先生(2009)】

長屋王は高市皇子一族からなる「北宮(橿原市にあるもう1つの邸宅)王家」の長でもあり、より天皇家中枢に近い血筋であることなどから藤原氏に警戒されていたとする説。

【その他の議論】

一般的に「藤原四兄弟」と人括りにされることが多いが、房前は長屋王と親しく、武智麻呂、宇合とは距離をとっていたと推測する研究者もいる。

③長屋王という人物

長屋王は天智・天武の両家の血を引く貴種であった。

父・高市皇子(たけちのおうじ)

★天武天皇第1皇子
★壬申の乱で活躍
★母の地位が低かった(筑紫の豪族出身)ため後継とはならなかった
★皇太子草壁皇子没後は太政大臣として持統朝で活躍

母・御名部内親王(みなべないしんのう)

★天智天皇と蘇我姪娘(右大臣蘇我倉山田石川麻呂の娘)の間に生まれる
★同母妹が元明天皇

4人の妻

★吉備内親王(草壁皇子と元明天皇の間にできた皇女)※自害
★藤原不比等娘
★阿倍氏の娘
★石川氏の娘

スピード出世

叔母にあたる元明天皇の大きな期待があったと推測される。721年、元明天皇死去は大きかったか。

704無位から正四位上に3ランクアップ。
709宮内卿(皇室業務)に任命。従三位。
710式部卿(人事など)に任命。
716正三位。
718大納言。藤原不比等の次位。
720不比等死後、太政官首班。
721従二位、右大臣。
724聖武天皇即位とともに正二位、左大臣。

災異説を重視

災害や異変の有無によって政治の得失を決めることを重視していた風潮がある。

百万町歩開墾計画(722)、三世一身法(723)

太政官首班時代の政策としては百万町歩開墾計画(722)、三世一身法(723)。

「大夫人」称号事件(724)

聖武天皇は母:藤原宮子を尊んで「大夫人」(だいぶにん)と称する勅命を発したが、長屋王は公式の法律に照らし合わせて「皇太夫人」(こうたいぶにん)と言うべきと指摘。物事を厳密に取り扱う長屋王の性格が窺える。

長屋王家木簡が語るもの

★1986年~1989年、百貨店建築に伴い長屋王の大邸宅が発見。多量の木簡が出土した。
★国家からの給付以外に奈良、大阪に所領を持っていた。
★3人の妻とその子と一緒に住んでいたと思われるが、藤原不比等娘とその子供とは一緒に住んでいなかったと考えられている。

♨そういえば邸宅から牛乳を飲んでいたということもわかったっけ。

聖武天皇時代はコチラ

次章は藤原広嗣の乱