~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

『古代史講義戦乱篇(2019)』より、 元宮内庁京都事務所長、北啓太先生。

壬申の乱の背景には外交方針を巡る意見の相違があったものと考えられている。

大海人皇子が勝利した原因はいち早く不破と鈴鹿を閉鎖して東国の兵を動員できたこと、白村江の戦以降、天智朝への不満分子を取り込んだことなどにあると考えられる。

key 1 : 大海人皇子

★天智天皇の異母弟。大海人皇子が次期天皇であったという説もあったが、現在では後退している。それでも皇族筆頭であったことは確かであろう。

★668年、宴の席で大海人皇子が突然長槍で敷板を貫くという事件が生じた。そのため天智天皇は怒って殺そうとした。一方、大海人皇子は天智天皇が彼の息子である大友皇子を重んじだしたことに腹が立っていた。

★671年1月、大友皇子(24歳)が太政大臣となった。天智の皇后や有力豪族の娘から生まれた皇子は建皇子しかいなかったが早世。大友皇子は家格で劣る(伊賀の地方豪族の娘を母)ものの、立派な風采で、博学多才、亡命百済人ともよく交わり有力者となっていた。

★一方、白村江の戦の後に進められた天智天皇の中央集権体制に反感を持つ豪族も少なくなかった。大海人皇子の味方についたのはこういう人たち。

★671年10月、病床に伏した天智天皇が大海人皇子を呼ぶ。「皇位を授ける」と言う天智の真の策略を見抜いた大海人は「吉野に隠遁する」と願い出る、という有名なシーンは、信憑性が疑わしい。ただ、結果だけを見ると、大海人皇子は実際、吉野に隠遁し、朝廷の大海人皇子への警戒は緩かった。

★12月、天智天皇死亡。

★672年6月、大海人皇子、動き出す。壬申記の記述には朝廷が先に兵を集めたとあるが、大海人皇子の方に計画性があったと考える方が自然。(吉野に行った時点で既に計画性があったと考える。)

★672年7月頃、各地で戦闘開始。朝廷軍は内紛もあり、主力メンバーであった山部王は蘇我果安と巨勢比等に殺される。大海人皇子に投降するものもいた。

★朝廷精鋭軍の活躍もあったが、それも緒戦だけであり、東国の軍を得た大海人皇子が最終的に勝利した。

key 2 : 岐阜県不破関

大海人皇子は吉野から鈴鹿、桑名を通って不破へ。不破道を閉塞し、東海、東山道で「動員の遣い」を出した

※紀阿閉麻呂、田中足麻呂、大伴馬来田ら、多数の豪族を動員。

★不破と鈴鹿を素早く閉塞し朝廷と東国を遮断、東国の軍事力を自己のものとしたことが大海人皇子の勝因の1つであろう。

関ヶ原町歴史民俗資料館HPより。ここ、是非、行ってみたい!!ただ、リニューアルオープンする2020年7月以降が狙い目!!

不破関資料館の紹介は【コチラ】から(上記写真も)。関ヶ原も同地域である。・・・無性に本郷先生の本が読みたい!

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感想(2件)

key 3 : 東アジア情勢

★668年、高句麗滅亡。その後、唐と力を伸ばした新羅が敵対。

★671年、唐と新羅、双方から使者が来て、日本に援軍を要求した。

今日では外交政策の違いが壬申の乱の背景にあったと考えられている

♨すなわち、唐を支援する天智・大友と、唐の支援をしないとする大海人皇子の違い。【コチラ:超日本史

★天武朝では新羅と親密な関係を保つ一方、遣唐使は派遣されなくなった。

★国際情勢は安定しており、その間に内政改革が進んだ。(部曲の廃止、食封の改定、新冠位制度、八色の姓、豪族の統制など)

★天武天皇は壬申の乱を新しい皇統の誕生という位置づけをしたがっているが、実際は(外交方針の違いはあったにせよ)天智朝の後を継ぐ形で天武朝のもとで倭国はさらなる中央集権国家へと進むこととなった。

天智天皇、弘文天皇時代:コチラ

天武天皇時代はコチラ

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