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☞【日本史学習7つのポイント】『日本史のツボ』(本郷和人、2018年、文春新書)

日本史の何がポイントなのかわからなければ、まずこの本をオススメしたい。非常に読み易い。

第1章:「天皇制について」

ざっくり言うと、もともと天皇は「王」として君臨していたが、外圧の弛緩に対してその権力は分権。「武士」は、はじめは低い身分だったが数百年の学習を経て「武士の時代」をつかむ。幕末の混乱期に再びクローズアップされて、皇国史観が生まれ、そして、敗戦。再び国の「ヴィジョン」を示すことが求められる時代に。

「王」の役割は、民から税金を徴収して大規模な治水事業を行うこと、法律を定めること、兵馬を用いて戦争を指揮すること、神の言葉を民に伝えること、神に五穀豊穣を祈ること、暦を定めること、宮廷において芸術、文化を育むこと

それが、時代が下るとともに分権されて、役割が限定。今に至る。

外圧とアイデンティティ・クライシス

決定打は663年の白村江の戦。【コチラも

★天智天皇…都を飛鳥から近江に移し、内政改革、国防強化

★天武天皇…古事記、日本書紀編纂開始

★持統天皇…大宝律令完成を見届け死亡

彼らは外圧の緊張のもと、率先して外来文化を取り入れ、それをアレンジすることで日本独自の国のかたちを造り、それを旗印に諸豪族を束ねていった。

755年~の安史の乱⇒外圧低下⇒弛緩⇒律令制崩壊、荘園増加。

天皇は内向きに。天皇の権力はいとも簡単に摂関家に奪われている。

866年清和天皇。藤原良房が後見。藤原氏の摂関政治の礎。【コチラ

894年遣唐使廃止。大陸に学ぶものはない。その後、200年は平和を維持。国風文化洗練。

<系図の縦と横>

王らしい実権を握っていた時、26代継体天皇~48代称徳天皇。この時代は皇子たちがたびたび権力闘争により殺し合う。(最大は672年壬申の乱)

争いの時期は系図が横に広がる。天皇が闘争の対象でなくなると、縦になる。平和な時代でもある。

荘園が増えるも、最強の寄進先は天皇。これにより天皇の経済力は衰えなかった。この経済力を背景に摂関家から政治権力を奪い返そうとしたのが、白河上皇(1053~1129)~後白河上皇(1127~1192)までの院政期。ただ、これは諸刃の剣。なぜなら、律令制の自己否定だからである。そもそも天皇が私有地を持つこと自体が矛盾しているのだが。

院政開始時は武士はまだ野蛮な存在で、朝廷に刃向うことなど思いつきもしなかった。しかし、数百年の学習を経て、ゆっくりと自立した集団へ。鎌倉~江戸までの500年で、武士が天皇を頂点とした土地安堵の論理を編み出した。源氏、平家はお互いの争いと共に、武士として朝廷と戦う(独立戦争)という二重の戦いをしていた。

1192年の時点では西の朝廷はまだ武士を問題にしていなかったが、それが決定的になったのは1221年の承久の乱。これで朝廷方3000か所以上の所領が幕府のものに。天皇直属軍も解体。とどめは後鳥羽上皇配流。【本郷先生の書籍

承久の乱⇒仲恭天皇4歳で即位⇒乱ののち無理やり降ろされる⇒幕府中心に

(1242年、朝廷は忠成王を後継に据えるが幕府の反対で後嵯峨天皇に。後鳥羽上皇の家系を遠ざける。)

元寇に対して幕府が対応に当たったことから見られるように、軍事権は完全に幕府。

これに抗おうとしたのが、後醍醐天皇。建武の新政は失敗に終わったが、やろうとしていたことはかつての「王」としての天皇に近かった。そのため、幕末維新、皇国史観の中で非常にもてはやされたが、内実が伴わなかった

1352年、後光厳天皇即位がそれを物語る。これで武家は思うがままに天皇を任命できることを証明。

高師直「京都には王がいて、めんどくさいよ。どうしてもいないといけないなら木か金で作ったらいい」

この意味は両義的で、「いてもらわないと困る」とも読める。

これには、根強い「職の体系」があるだろう。

その、「職の体系」に頼らないで土地システムを作り上げるのは戦国時代。織田信長。この時期、朝廷は後土御門天皇、後柏原天皇など、在位期間の長い天皇がいるが、これは貧乏すぎて即位式ができなかったから。

江戸時代に入り、「禁中並公家諸法度」により、天皇の仕事は学問に

ちなみに改暦は将軍が代わった時は必ずであるが、天皇が代わった時はない時も。暦も1685年に渋川春海が作った貞亨暦に。

完全に姿を消していたが、平田国学などの影響もあり、庶民が期待。水戸では水戸学が生まれる。

そして、開国要求という外圧に際して再びクローズアップ。

日本が外圧による危機に曝された時に、新しいヴィジョンを掲げる。これが日本の歴史における天皇の役割。白村江の戦い、幕末維新、昭和の敗戦

(※外圧、って元寇、大航海時代などは含まれないのか??この時の武家の役割こそ見逃してはならないのでは、と思ったりもするが?)

★天皇の存在は外圧が生じた時にクローズアップされる、とひとまず考える。それは白村江の戦であり、幕末維新であり、昭和の敗戦。

♨天智天皇は外圧を利用して中央集権国家を成立させたという説も。(コチラ

★平和な時代は系図が縦、そうでない時代は系図が横にのびる。

☞【天皇と日本史についてもっと知りたければコチラ!

第2章:「宗教について」

★ポイントは3つ。「八百万の神」、「世襲」、「外圧」

基本的に、「安定&まったり」。どちらかを倒すまで戦う、というようなことはない。伝播力はないが、吸収力はすごい。砂漠で生まれた一神教とは最も遠いところにいる。

★宗教と世襲は本来相性が悪いが、これが日本的。吉備真備、最澄、空海の頃は世襲がそこまで確立されていなかった。

★仏教、キリスト教伝来時、大きなインパクトを与える。興味深いのは神道が確立された8世紀、仏教も国家体制に組み込まれていく。これは海外からのインパクトであろう。おもしろいことに皇室は最大の仏教擁護勢力。(※天皇に神聖さを求めるのであれば、仏教は受け入れがたいことなのかも知れないが、簡単に仏教を受容しているところがいかにも日本的だ、日本的すぎると思う…。)皇室はどっちか言うと仏教を大事にしていた。

★平安貴族は最澄の理論より、空海の「超論理パワー」の方に飛びついた。これにより最澄も密教寄りに。しかし、唐が衰退するにつれ、これらが「おまじない」なものに拍車がかかるとともに、貴族の世襲原理とマッチしてしまった。院家のように、貴族の序列が仏教界ともリンクしてしまうように。普通、これは成り立たないはずだが、成り立ってしまった。なぜなら、当時は知識うんぬんよりも「儀式」さえできれば良かったから。平安仏教の顧客はあくまで貴族。そして、寄進系荘園を受け入れ、完全に世俗権力となる

★これに異を唱えたのが鎌倉新仏教。法然「念仏だけでいいよ」。禅宗も座禅さえ組めれば良いので、取り組みやすい、と考えて良いかと。民衆は自前の救済を求めていた。法然と熊谷直実の関係などのストーリーもあり。「浄土にはかかる差別はあるまじきものを」平等への切実な願い。

★北条泰時は御成敗式目で統治者としてわかりやすいルールを設け、さらにこれを進めたのが5代執権の時頼。民衆を大事にしなくては、と説く。これには浄土宗の考えもあったであろう。

★旧仏教は天皇が人事権をもっていたが、禅宗だけは幕府だった。十方住持スタイルは室町時代に廃れたが。一休宗純はこれに怒り、「二度出家」という考えを持つ。1度は出家、2度目の「出家」は仏教界からも「出家」して俗人のごとく暮らすこと

★戦国時代では一向宗とキリスト教。一向宗は浄土宗から派生するものの、一神教と近い。南都六宗の貞慶が法然に「阿弥陀仏以外はどうするのか」と問う。(法然は「他の仏も敬えと教えている」と逃げる。)平等志向をさらに強めたのが一向宗で、このもとで強い団結力が生まれ、為政者を困らせている。(※信長は長島で2万人、越前で1万2000人殺害。)キリスト教徒も「ライバルは浄土宗」と言っている

★江戸時代では宗派の違いとかは関係なくまとめて管理されることに。寺町にはいくつもの寺が並べられ、宗派の意味が希薄なものへ。役場的な役割も課され、国家体制に組み込まれる。知的な役割は儒教に。徳川綱吉は儒学者でもある。(湯島聖堂を建てる。)

明治政府が神道をもってきたが、これは無理があった。神道の本質は「まったり&安定」だから。そして天皇家もむしろ仏教寄りそこで、起きたのが「廃仏毀釈」。これでどれほど重要な文化遺産が破壊されたことであろうか。しかし、結局は江戸以来の葬式仏教と、建前としての天皇制が共存。【蔭山先生の書籍

★仏教、キリスト教、黒船に続く、第4の外圧が「敗戦」。これにより宗教そのものの喪失が起きる。よりどころとなる宗教が否定された日本人はどこへ向かう?

★日本宗教の基本は「安定&まったり」。

♨これについては蔭山先生の著作、【コチラ】で是非。一神教と多神教の違い、その中でも日本の特殊性というものは押さえておきたい。しかし、個人的な意見としては生物学者のリチャード・ドーキンス博士が言うように、「無宗教」でいいんじゃないか、と思う。宗教の違いで戦争が起きるくらいなら。日本にも「山片蟠桃」という無神論者が江戸時代に現れたりもしたが、「無神論者、かと言って共産主義者ではない」という意見も大体的に取り上げて欲しい。

★日本の宗教戦争は織田信長が終わりにしたことも付記したい。

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感想(3件)

第3章:「土地について」

★「栄光の古代、暗黒の中世」という史観には、ちょっと待ったをかけたい。

★班田収授法では6歳以上を6年ごとに把握しているが、これが本当にできたのか?(人数が少なかったにせよ)

★律令制は輸入されたが、(隋から始まる)科挙は輸入されなかった。

★723年の三世一身法、743年の墾田永年私財法は単なる現状の追認では?と思う。

★荘園についてうまく説明できれば高校教師として一人前、らしい。(※具体例を示すとわかりやすい。国司がそもそも無茶な取り立て、横領などあかんことした、とすると話の筋道が立てやすい、と思う。)⇒【国司がいきなり横暴な役人として出てくるのは摂関家全盛期の頃で、初期は王臣家の脇役に過ぎない:名著「武士の起源を解きあかす」

♨紫式部の父親など、まともな国司ももちろんいたのだが。

★結局、所有があいまいなまま土地があるが、実際に土地が侵害されたらどうするか?中央の領家、本家は駆けつけてくれない。そうなると自力救済しかない。ここで武士が誕生。その代表となったのが幕府。新恩の給与と本領の安堵、これが武士の願い。頼朝は税金を伊勢神宮などに払わせることで職の体系は守っていたが、「御成敗式目」で正式に法を定める。【自力救済は仁明天皇の時代で既に存在、という説。(桃崎先生)

★1225年くらいから銅銭が中国から大量流入。土地の売買にも使われる。おそらくこれが日本史上初めて。

★これにより土地が売られる。鎌倉幕府滅亡の理由は実は明らかになっていないが、貨幣経済の発展が原因ではないかと筆者は考える。(そこへ元寇。)

霜月騒動(1285年)は、「オールジャパン」派(安達泰盛ほか)と「御家人ファースト」派(内管領・平頼綱ほか)の争いとみる。⇒平頼綱勝利で徳政令(御家人が売った土地を返す)。⇒しかし、これで信用が崩れ、御家人たちはお金が借りられなくなり、さらに昏迷。⇒貨幣経済が浸透してきた近畿では再び武力による安全保障が。(彼らを「悪党」と呼ぶ。)⇒彼ら「悪党」を束ねることができたのが護良親王!!そして、尊氏が「オレがもう1回幕府を作り直す」と宣言するとその1か月後に幕府滅亡。

♨この説明はわかりやすい。さすが。

★所有権の未成熟がある。(※これは現代でも時々あったりするので土地関係に疎い私としてはちょっと驚く。)

★足利家が京都に幕府を置いたのは?⇒貨幣経済への対応のため?旧来の職の体系を超える論理を打ち出せず、天皇、貴族を排除することができなかった。相変わらず曖昧な力関係で結ばれ、上で手打ちをしても下は関係なく争い続ける、というのが続く。

★これを解決したのが信長。もう中央に税を払う必要はない。

(※ヘーゲル:「自由」とは(誰にも奪われないという「所有」である、そして歴史は自由の相互承認として展開される、互いの所有権を認め、侵害しないことを取り決める)(※現代においておそるべしは「同調圧力」であるが…、これは「自由」と呼べるのか…)

★「栄光の古代」という考えには「待った」。「三世一身の法」、「墾田永年私財法」などは後追いでは?

★貨幣経済の浸透により、「土地」が売買の対象に。(貨幣経済の浸透と鎌倉幕府崩壊の関連は今後のテーマ!)

★護良親王は悪党を束ねた存在であった、と考えるとわかりやすい。オレがもう1回幕府を作り直す!としたのが足利尊氏。→【室町時代に関してはやはりコチラ

第4章:「軍事について」

★戦術、戦略、兵站に分けて考える。

★本当の意味で兵站を考えたのは織田信長以降ではないか。そして兵站の天才が豊臣秀吉。兵站はこれまで軽視されてきたが、兵站を整えるには経済力が必要、経済力を発展させるためには民を安心して働かせることが必要、つまり統治能力が必要。(※現在の少子化、保育園問題について国は役に立ってない

★勝つために必要なものは、①敵を上回る兵力、②優れた装備、③大義名分。

★富士川の合戦(平家7万、源氏20万)は盛り過ぎ。その20分の1くらいであろう。川中島もだいぶ怪しい。

★優れた装備を得るには経済力と情報力が必要。

★明治政府の方がしっかりしていたが、太平洋戦争時はダメ。兵力、装備で劣るのに、皇国史観と奇襲、戦艦大和などの一点豪華主義で乗り切ろうとしたところが甘い。【戦艦大和は無用の長物ではない?はコチラ

★勝ち負けの基準は仕掛けた方が目的を達成できたか否か。よって、川中島は信玄の勝ち、青野ケ原の戦いは土岐頼遠の勝ち、応仁の乱は細川氏の勝ち。応仁の乱は一言で言えば細川家に対するクーデター。1390年の土岐康行の乱、1392年の明徳の乱(山名氏)、1399年の応永の乱(大内氏)を見れば、その構図は明らか。結局、細川の天下は続いたので東軍の勝ち。【この領域において、呉座先生の戦争の日本中世史は必読

関ヶ原での家康の意図は大坂城占拠だったので、関ヶ原の時点ではまだ戦は終わっていなかった。立花宗茂は大坂城の毛利輝元に籠城戦を唱えるが、よくわかっていない輝元は領地保全を信じて大坂城を明け渡してしまう。この時点で家康勝利が確定

★船の漕ぎ手は討ってはいけないという暗黙のルールがあったが、源義経はそれを破った。だから勝てたという話もある。ただ、平忠度(清盛の末弟)は相手を殺すところで、相手の家来に殺されてしまったが、これはOKらしい。この時代は薙刀が使われていたことから、まだ個人戦であった。しかし、鎌倉末期の悪党スタイルは完全に集団戦であり、要塞戦。農民にも長い槍を持たせて突撃させる。

★秀吉の兵站力は見事。小田原攻めではわざわざ大茶会を開いている。毛利元就もそう。関ヶ原の両軍も良かった。軍事政権と言うと今の北朝鮮、戦争末期の日本のように国民生活を犠牲にするイメージがあるが、本当に強くするにはそれだけではダメ

★戦争というものは武将の強さも必要であるが、統治能力、経済力、大義名分なども必要。

★軍事政権というと国民生活を犠牲にするイメージがあるが、それだけでは強くならない。戦争末期の日本がそれ。

★関ヶ原の戦時点ではまだ勝敗は決していなかったが、毛利輝元が大坂城を明け渡した時点でOUT。(【関ヶ原の合戦はなかった説はコチラ

第5章:「地域について」

「日本」=「均質」というイメージもどうかと思う

古来からの関所は3つあり、
①琵琶湖の北、越前にあった愛発(あらち)の関(⇒これはのちに京都大津間の逢坂の関に代わる。北陸道閉鎖。)、
②鈴鹿の関(三重の鈴鹿山。東海道を固める)、
③不破の関(東山道を固める。)
これらのポイントは「西にはない」ということ

古代史講義戦乱篇:壬申の乱はコチラ

進んだ文化は常に西から。その入り口が博多。そして瀬戸内海が大動脈。八幡神社のおおもとは宇佐八幡宮でこれは大分県で、北九州への上陸拠点であった。ここで祈りを捧げてから南九州の隼人と対決。

★関ヶ原は肥沃な土地であるとともに鉄鉱石の産地でもあった。大海人皇子はまず関ヶ原へ行き、不破を封鎖、そして兵力を集め(おそらく東国から)、戦争へ。

★坂上田村麻呂の蝦夷征伐はどこまで統治できたか相当怪しい。(♨実際に、その後、徳政論争が行われているし。)

★富士川の戦いでは兵站が早々に尽きたために戦わずして敗走となった。

★清盛が頼朝を伊豆に流したのは、池禅尼の土地があったせいもあるが、ロシアにおけるシベリアみたいな感覚であろう。清盛は京都生まれ京都育ちである。

★頼朝も13歳まで京都生まれ京都育ちであるが、彼が偉いのは富士川の戦いで京都に行こうとするのを三浦氏、上総氏、千葉氏が「あなたがするべきことは京都へ行くことではない。関東を治めることだ。」という諫言を素直に聞き入れたこと。

★吹けば飛ぶような北条氏の娘を大事にしたことも大きい。反対に源実朝は公家から嫁を娶り、和歌をたしなんでいたため、あんな将軍ならもう要らない、となってしまった。

★また、頼朝は朝廷から官位をもらう時は必ず自分を通すように、と告げていた。これで朝廷が直接、関東武士と結びつくことを避けた。これがわかっていなかったのが義経。

★面白いのは承久の乱の後に六波羅探題と幕府の管轄の境界線が三河になり、ここに配置されたのが足利であったこと。この文化の接点から足利、織田、豊臣、徳川が生まれた

★細川頼之は、ダウンサイジングを行った。関東は今川に、博多は大内に任せ、あとの守護大名は京都に。遠国放任策も記されている。

★都と田舎がひっくり返ったのが応仁の乱。日本史上はじめて地方が主役となった。銀山を有し、港も有する毛利氏は西国政権を築ける可能性があった?また、北条氏も。氏政は最後負けてしまったが、最大版図は氏政の時である。

★家康は吾妻鏡を編纂させて鎌倉政権を研究した。儒学者の藤原惺窩の影響も大きい。

★江戸時代、東北地方の石高は飛躍的に増大した。

★日本が均質、という考えは否定。(♨このあたりは複数の地域に住んだことある人であれば、身を以て実感していることであろう。)

★三河は東西の接点であった時代もあり、ここから足利家含め、信長、秀吉、家康らが生まれているのも面白い。

第6章:「女性について」

★「日本は昔から男尊女卑」という説は怪しい。持統天皇、北条政子、日野富子の例をみればわかる。(♨あと、推古天皇称徳天皇もね。)

★エマニュエル・トッドさん「核家族こそ原始的で、⇒直系家族⇒共同体家族。」。

★日本における女性天皇の存在は見逃せない。中でも重要なのは持統天皇。天照のモデルは彼女とも。

★長子相続は鎌倉時代から。

★道鏡事件の称徳天皇以降、江戸まで女性天皇は選ばれず。

★日本が中国と違うのは外戚が世襲されたこと。

★平安時代の女流文学も興味深い。ここで重要なのは去勢の文化は取り入れなかったこと。そのため源氏物語のようなストーリーが生まれた。

★江戸以降に女性に権利は縮小。土地を持てなくなるなど。

★夫婦別姓問題について、女性の地位が高かったというよりは、女性の実家の力が強かった、とみる。死んだあとの財産は返すなどの決まりもあった。

★慈円の愚管抄には「女人入眼の日本国」という記述がある。具体的には北条政子のことであるが、それくらい強かった。

★ワイルドカード的な存在が遊女。後鳥羽上皇は亀菊と言う遊女に摂津国の荘園を与えたが、地頭が言う事を聞かないので幕府に地頭廃止を求めたというのも、承久の乱の一因、という裏話もある。梅毒が日本に入ってくるのは戦国時代で、それから遊女への差別意識も生まれた。

★秀吉とおねの関係は対等にみえる。秀吉の留守の長浜を仕切っていたのは彼女。

★加賀前田家のおちょぼの例などもある(まつに子供が生まれなかったために元使用人でありながら権力を手中に)。ある意味、本能むき出し。

★江戸時代になって女性の地位は低下。武士階層が顕著。

★石田三成のひ孫が徳川家光の側室になっているのは??儒教社会の影響。

★日本において、「昔は女子の身分が低かった」の「昔」の大部分は江戸時代を指している。

★推古天皇、持統天皇、北条政子、日野富子あたりはよく調べて良いと思う。「女人入眼の国」(いわば、ダルマの眼を入れる役割は女)の女人と言われた北条政子など、決して女性の力は弱くなかった。

♨さらに古代に至っても、「女性が狩りに参加しなかった」という証拠は出ていない。

第7章:「経済について」

★平安時代、地方から吸い上げられた富は皇室の放蕩に使われた。これにより経済が活性化したと言う一面もある。ただ、これは仁徳天皇「民のかまど」からは程遠い。

★日本最初の通貨と言えるほどの通貨は清盛の時代に宋から大量に輸入された銅銭であろう。

★興味深いのは貨幣経済が浸透した時期に承久の乱が生じていること。これにより幕府は西国の領地も手にすることが出来た。

★尊氏が京都に幕府を置いたのは貨幣経済への対策?

★東山文化は庶民でも取り入れることができるものであった。

★応仁の乱で雪舟は大内家のもとへ。他にもそういう地域はあり、京都の文化が地方に伝播した。

★信長の旗印は永楽銭。

★秀吉は、朝鮮出兵では点を支配していく方がふさわしかったであろう。

★江戸時代で米本位制に転換。文化も、初期の元禄文化(17世紀後半から18世紀前半)は井原西鶴、近松門左衛門、尾形光琳など上方。江戸の文化が成熟していくのは19世紀初めの文化・文政の時代。(化政文化)喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重、滝沢馬琴、十返舎一九など。上方では伊藤若冲や上田秋成などがいて、東西に2つの中心ができる。

★鎌倉時代に貨幣経済となったが、江戸時代で米本位制に転換する。(♨このことの歴史的意義とその評価についてはさらに調べたい!)

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