~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

清和天皇という幼帝即位は1つの事件。その清和天皇朝の866年におきた「応天門の変」は謎多き事件。伴善男が一発逆転を目指したとも言われるが、最終的に藤原氏優勢は変わらなかった。清和、陽成天皇は大人になると退位させられ、光孝天皇が選ばれた。【コチラも:古代史講義、摂関政治の実像について

ここでは「日本三代実録」で書かれる清和、陽成、光孝天皇時代のメモ。

第56代:清和天皇期(858年~876年)

【清和天皇】…文徳天皇第4皇子。兄の3親王(惟喬、惟条、惟彦)を抑え、生後8カ月で皇太子に立てられ、のち9歳という当時史上最年少で即位する。実権は外祖父の藤原良房である。『貞観格式』の編纂など制度の整備や学問の振興には積極的にかかわっており、その治世は評価される。なお賜姓源氏のうち武士化した者は清和天皇の子孫に多い。 27歳で譲位し、31歳で死去。

858 文徳天皇崩御。清和天皇(藤原良房の孫)が9歳で即位。
866 応天門の変

※謎多き事件。大内裏の応天門への放火の疑いをかけられた伴善男らが処罰される。

藤原良房が正式に摂政となる(藤原氏による摂関政治の礎。)
869 陸奥国での地震に際して減免措置の詔。さらに新羅人10人を派遣して復興にあたらせる。
875 黄巣の乱

※塩の密売商人・王仙芝の反乱に呼応して黄巣が指導した農民反乱。875年山東に蜂起し、四川を除くほぼ全土に広がる。黄巣が帝位につき国を大斉と号したが、内部分裂により884年藩鎮とトルコ系民族の支援で鎮圧された。これにより、唐朝の権威は失墜した。

「伴大納言絵巻」wikipediaより。

三代格式(復習)

弘仁格式(820年)…嵯峨天皇/藤原冬嗣(※平城天皇には再評価を!コチラ
貞観格式(869年、871年)…清和天皇/藤原氏宗ら
延喜格式(907年、927年)…醍醐天皇/藤原時平・忠平

♨この時代の文化は嵯峨天皇のときの元号である「弘仁」と清和天皇のときの元号である「貞観」をとって、「弘仁・貞観文化」と言われる。基本的には漢文学。

書籍紹介

『古代史から解く伴大納言絵巻の謎』(倉西裕子,2009)・・・超絶面白い。中古でも値が落ちないのはうなずける。図書館でみつけたが、この本を読めたのはラッキー。のちほど「読書メモ」掲載予定。⇒【コチラ

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機会があれば読んでみたいマンガがコレ。アニメ化を望む。

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one more:伴善男

【伴善男】(809~868)元々は大伴氏。傑出した人物で仁明天皇期に重用される。866年、政敵の源信を陥れようと応天門の変を起こすが失敗。最終的に藤原良房により失脚させられる。この事件の真相は闇。

and more:源信

【源信】(810~868)みなもとのまこと。「往生要集」の恵心僧都とは別人なので注意。嵯峨天皇の息子の1人(仁明天皇、源融など、50人!のうちの1人)。嵯峨源氏として藤原良房に次ぐ出世をしていた。応天門の変で嫌疑を逃れた。

♨臣籍降下した嵯峨源氏は一文字の名前を守り続けた。

and more:源融

【源融】(822~895)やはり嵯峨天皇の息子。陽成天皇廃嫡の際に皇位を名乗り出るが、藤原基経に止められる。光源氏のモデルの1人とされる(ほかは安和の変で失脚した醍醐天皇皇子の源高明、あるいは藤原道長)。河原左大臣とも。

⑭「みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れ初(そ)めにし われならなくに」

第57代:陽成天皇期(876年~884年)

【陽成天皇】・・・869-949。清和天皇第1皇子。3ヶ月で立太子、9歳で譲位される。母は藤原高子であり、藤原基経の妹。とにかく複雑な経過を経て(基経と高子の争いがメイン?)、結果的に基経に退位させられる形となり、光孝天皇(55歳)に譲位。乱暴者としても有名。

876 清和天皇から譲位され陽成天皇即位
878元慶の乱 (東北)

出羽国で起きた俘囚の乱。陸奥国からも援軍が送られた。
883宮中殺人事件(これが直接的な引き金とされ退位させられる)

房総半島で4度目の俘囚の乱

筑後で受領殺害事件
884光孝天皇に譲位

画像はwikipediaより。

退位したきっかけが「宮中殺人事件」である。

⑬「つくばねの 峰よりおつる 男女川(みなの川) 恋ぞつもりて 淵となりける」

百人一首=鎮魂歌?コチラも

「陽成朝に入ると、従来型の群盗と王臣子孫の群盗の双方が、手がつけられないほど凶悪化してくる。」

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

陽成は退位後65年間生き続けるが、やっていることは王臣家人の有閑弓騎と変わらない乱暴。

陽成は朝廷の腫物であり続け、朝廷を蝕んだ。王臣子孫の無法が宇多朝を境に目に見えて悪辣の度を増し、収拾不能に陥った一因は、間違いなくそこにある。

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

俘囚の乱

「三十八年戦争の終結から七二年も経つのに、俘囚は三〇~四〇人程度で、国司軍の千人に勝つほど強かった。これだけの戦力差は、俘囚がまだ蝦夷の騎射術を伝えていたことを推察させる。」

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

三十八年戦争終結から俘囚問題は既に始まっていた。元慶の乱が知られているが、それ以外にも俘囚の乱は多数あったのである。

受領殺害事件

この時期、受領殺害事件は珍しいことではない。それくらい地方は退廃していた。ただ、

「対馬守の立野正岑の射殺事件(857年)では犯人が郡司富豪層だけだったが、今回の事件(883年:筑後守都御酉射殺事件)では、あらゆる階層の有閑弓騎の不満分子が、任用国司を核に結集し、受領を殺した。」

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

というのが重要。

後に出てくる平将門の方が国司を殺さなかっただけ穏便だ。(ただ、新皇を名乗ったことが一線を超えたことである。)

one more:元良親王

【元良親王】陽成天皇第1皇子。源融、在原業平と並ぶプレーボーイ御三家。

⑳「わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ」

第58代:光孝天皇期(884年~887年)

【光孝天皇】830-887。第54代:仁明天皇の第3皇子。兄は第55代天皇の文徳天皇。紆余曲折を経て天皇に。光孝天皇は「つなぎ」のつもりで子供たちを臣籍降下させて、以後、争いが起きないようにしようとしたが、藤原基経の推薦とまだ皇太子が正式に決定する前に光孝天皇が崩御したことから、息子の宇多天皇が即位した。これにより仁明ー文徳ー清和ー陽成のラインから、仁明ー光孝ー宇多ー醍醐のラインに変動。

884 陽成天皇から譲位

藤原基経が事実上の関白となる

悪僧兵出現の記載も
887死去。息子・宇多天皇即位。

「彼(光孝天皇)にとって、摂関家は雲の上の、天皇さえ一存でいつでも辞めさせる恐るべき権力者だった。その摂関家に棚からぼた餅で皇位をもらった光孝は、全力で迎合した。光孝は政務をすべて基経に判断させ、事実上の関白を創始した。しかも光孝は子女の全員に源姓を与えて臣籍降下させ、「皇統を自分の子孫で独占する気はない」と恭順の意を基経に示した。この低姿勢は天皇と基経の関係を良好にし、結果的に彼の子孫に皇位が約束された。」(⇒宇多天皇の即位となる。)

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

画像はwikipediaより。

⑮ 「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ」

貧困時代の歌

and more:藤原基経

【藤原基経】836-891。応天門の変での行動は賢かった。藤原良房の養子として応天門以降、その後を継ぐ存在に。阿衡の紛議で宇多天皇を困らせたりするが、その間に菅原道真が力をつけた。

866(30歳)応天門の変
872(36歳)良房死亡
876(40歳)陽成天皇の摂政に
878(42歳)元慶の乱(※「がんぎょうのらん」:俘囚の反乱)
880(44歳) 清和天皇崩御、遺言により太政大臣に
881(45歳) 太政大臣を辞退
882(46歳) 摂政職の辞退を繰り返す(陽成天皇への不信感?)
884(48歳) 陽成天皇退位表明、光孝天皇擁立。(事実上の関白)
887(51歳) 光孝天皇崩御、第7皇子宇多天皇擁立。

関白に任命→型どおり辞退…橘広相起草の勅答から「阿衡の紛議」が出て出仕を止める(示威行為)この解決に菅原道真が活躍している。基経が休んでいる間に道真は力をつける。

宇多天皇の治世は「寛平の治」と呼ばれる。
888(52歳) 天皇の譲歩により勅命訂正。娘の温子入内で和解。
891(55歳)死去

894年に菅原道真遣唐使廃止しているので、この時期には道真がだいぶ力をつけていたことがわかる。ちなみに「遣唐使廃止」は「安史の乱」(755年)が原因とイメージするような記述をたまに見るのであるが、年代的は正確に言えば、黄巣の乱(875~)まで下っている 。

また、社会全体で見るとこういう見方も(↓)

基経は、陽成を退位させ、光孝に阿諛追従させ、宇多を阿衡の紛議でやり込めて、天皇権威を傷つけた。基経は結局、それが朝廷全体の権威の総和を貶めることを見落とした。

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

もはや紛らわしすぎて絶句。「元慶の乱」と「天慶の乱」の違い

※あまりにも紛らわしいが、「天慶の乱(てんぎょうのらん)」は10世紀の平将門、藤原純友の乱(「承平・天慶の乱」とも言う)。

「元慶の乱」と書いて「がんぎょうのらん」と読む方の乱は、878年の俘囚の反乱。【日本史のココがダメ:漢字地獄

こちらは秋田城主による圧政が原因。

最初は大敗を喫していたが、藤原保則(南家)、小野春風を登用し、武力によらず懐柔した。

「元」と「天」、字が違うのは小学生でもわかるのだが、既に漢字地獄に陥っている受験生にとっては、結構、間違うと思う。【最近では「承平」が消えて「天慶の乱」のみに。ただし、ややこしいのは変わらない。古代史講義戦乱篇。

次章は菅原道真と宇多天皇時代