~只今、全面改訂中~

第58代:光孝天皇期(884年~887年)

【光孝天皇】830-887。第54代:仁明天皇の第3皇子。兄は第55代天皇の文徳天皇。紆余曲折を経て天皇に。

光孝天皇は「つなぎ」のつもりで子供たちを臣籍降下させ、争いが起きないようにしようとしたが、藤原基経の推薦とまだ皇太子が正式に決定する前に光孝天皇が崩御したことから、息子の宇多天皇が即位した。

これにより「仁明ー文徳ー清和ー陽成」のラインから、「仁明ー光孝ー宇多ー醍醐」のラインに変動。

884 陽成天皇から譲位

藤原基経が事実上の関白となる

悪僧兵出現の記載も
887死去。息子・宇多天皇即位。

彼(光孝天皇)にとって、摂関家は雲の上の、天皇さえ一存でいつでも辞めさせる恐るべき権力者だった。その摂関家に棚からぼた餅で皇位をもらった光孝は、全力で迎合した。光孝は政務をすべて基経に判断させ、事実上の関白を創始した。しかも光孝は子女の全員に源姓を与えて臣籍降下させ、「皇統を自分の子孫で独占する気はない」と恭順の意を基経に示した。この低姿勢は天皇と基経の関係を良好にし、結果的に彼の子孫に皇位が約束された。」(⇒宇多天皇の即位となる。)

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

画像はwikipediaより。

⑮ 「君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ」

貧困時代の歌

この時代の最重要人物:藤原基経

【藤原基経】836-891。藤原良房の養子として応天門の変以降は良房を継ぐ存在に。天皇を傀儡とした。

阿衡の紛議で宇多天皇を困らせている間に菅原道真が台頭。
866(30歳)応天門の変
872(36歳)良房死亡
876(40歳)陽成天皇の摂政に
878(42歳)元慶の乱(※「がんぎょうのらん」:俘囚の反乱)
880(44歳) 清和天皇崩御、遺言により太政大臣に
881(45歳) 太政大臣を辞退
882(46歳) 摂政職の辞退を繰り返す(陽成天皇への不信感?)
884(48歳) 陽成天皇退位表明、光孝天皇擁立。(事実上の関白)
887(51歳) 光孝天皇崩御、第7皇子宇多天皇擁立。

関白に任命→型どおり辞退…橘広相起草の勅答から「阿衡の紛議」が出て出仕を止める(示威行為)この解決に菅原道真が活躍している。基経が休んでいる間に道真は力をつける。

宇多天皇の治世は「寛平の治」と呼ばれる。
888(52歳) 天皇の譲歩により勅命訂正。娘の温子入内で和解。
891(55歳)死去

基経は、陽成を退位させ、光孝に阿諛追従させ、宇多を阿衡の紛議でやり込めて、天皇権威を傷つけた。基経は結局、それが朝廷全体の権威の総和を貶めることを見落とした。

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

【おまけ】紛らわしすぎて絶句。「元慶の乱」と「天慶の乱」の違い

あまりにも紛らわしいが、「天慶の乱(てんぎょうのらん)」は10世紀の平将門、藤原純友の乱(「承平・天慶の乱」とも言うが最近は承平が消えて天慶のみ)。

「元慶の乱」と書いて「がんぎょうのらん」と読む方の乱は、878年の俘囚の反乱。

こちらは秋田城主による圧政が原因。

最初は大敗を喫していたが、藤原保則(南家)、小野春風を登用し、武力によらず懐柔した。

次章は菅原道真と宇多天皇時代