~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期㉟:1333年4月』です。

鎌倉幕府の一員として派兵された足利高氏は、密かに後醍醐天皇と内通し、鎌倉幕府に反旗を翻しました。

(持明院統)正慶2年(1333年)年表

(大覚寺統)元弘3年(1333年)年表

4/8千種忠顕、山陽・山陰地方の武士を携え京都進軍

※千種忠顕は後醍醐天皇に付き従って隠岐島へ行った人物。
※後醍醐から総大将に任命されて2万7000ほどの大軍となったが、功を焦り、赤松円心らと連携をとらず六波羅軍の反撃にあう。
4/16足利高氏、京都到着

※六波羅軍に援軍として加わる。
4/19名越高家、京都到着

※六波羅軍に援軍として加わる。
4/27名越高家、赤松円心の軍に射殺される

※赤松氏の一族の佐用範家により射殺される。
※これを契機に足利高氏は寝返りを決意したと考えられている。
「鎌倉幕府倒幕が足利家の悲願」という説は現在では否定されている。
4/29足利高氏、丹波篠村(しのむら)八幡宮に挙兵成功祈願の願文を納める

※いよいよ寝返りを明らかにした。
足利高氏
うーん、今回の戦は、後醍醐天皇方の方が優勢だわっ。

時家くんも死んじゃったしねー。

長崎高資
なに、高氏が離反を考えているだと?

人質としている息子や妻はどうするつもりだ?

足利高氏
え、そんなのすでに手を打ってるに決まってんじゃん(^^)

それよりオタクは自分の心配でもしてなよ。

長崎高資
おのれ~っ(怒)
佐々木道誉
あ、高氏さん?

私も一緒に戦いますよー。

赤松円心
高氏さん、私もついていきます。
護良親王
足利高氏、、、

奴に騙されてはいけない、、、

高氏の離反は、形勢を凝視していた全国の武士たちに決定的な影響を与えた。彼らは先を争って討幕の軍に身を投じ、各地の幕府・北条氏の拠点を攻撃した。

「詳説日本史研究」p175