~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期⑤:1274年」です。

モンゴル軍、1回目の来襲があった年です。

文永11年(1274年)年表

1/26後宇多天皇即位(第91代)

※当時8歳。父・亀山上皇(第90代)の院政期。
※後深草上皇(第89代、亀山上皇の兄)は明らかに不満。
※祖父・後嵯峨法皇(第88代)が皇太子を決めないまま1272年に崩御したことが、南北朝統一まで200年以上続く混乱の原因となる
※後宇多天皇が後醍醐天皇(第96代)の父である。
※後宇多天皇は優秀な政治を行ったとして知られる。
2/8一遍、遊行を開始

※東北~九州まで行脚。のちに、時宗(じしゅう)と呼ばれる。
2/14日蓮、許される

※北条時宗は一門、大名の反対を押し切って日蓮を赦免。
3/26日蓮、鎌倉帰還

※元による侵略が目前となっており、日蓮の意見を聞こうとした。
4/8日蓮、幕府に対策を聞かれる

※日蓮はこれまで通り、他宗をやめるべきと進言。
5/17日蓮、身延山久遠寺入山

※幕府は他宗を辞めないと悟り、鎌倉を発ち、山梨へ。
6/13高麗国、忠烈王が即位

※父・元宗の死に伴う。
※フビライに日本侵略を積極的に進言。
※フビライは趙良弼が日本行きの無益さを説いたことで、侵略を諦めていたが、忠烈王が積極的に軍船、兵団、兵糧の提供を申し出たため、気が変わった。
10/3元軍、出発(※1)

※30,000~40,000人規模。
10/5元軍、対馬上陸。(※2)

宗助国(当時68歳)らが応戦するも戦死。
※多数の島民が惨殺、および捕虜となった。
※博多の鎮西奉行に知らせる。

「アンゴルモア」がヤバい:コチラ
10/14元軍、壱岐上陸

※壱岐守護代・平景隆らが応戦するも、圧倒的兵力差の前に敗れる。
※平景隆は城内で自害。
10/16元軍、肥前(平戸や鷹島)上陸

※松浦党らが応戦するも敗北。
※対馬、壱岐のような惨状。
10/20元軍、博多湾上陸(※3)

※九州の御家人が集結していた。
※日本軍の総大将は少弐景資
10/21元軍、撤退(※4)
11/1元軍対馬上陸の報告が鎌倉に届き、幕府が命令を出したのがこの時

※早馬を使っていたが、これが限界。
※本所一円住人も動員
11/6京都へ戦勝報告が届く

(※1)文永の役

1274年10月、元は(中略)…元兵2万と高麗兵1万を兵船900隻に乗せ、朝鮮南端の合浦を出発させた

「詳説日本史研究」p153
高麗・忠烈王
この日のために国をあげて船を作ったよ!

なんとかフビライ様に気に入られたいし、

モンゴル軍と仲良くなることで国内の対抗勢力も諦めてくれるだろうし、、

ただ、民衆がもたん…

(※2)対馬上陸、老将・宗助国(資国)が迎え撃つ

元軍は対馬に上陸して守護代の宗資国を敗死させ、壱岐・松浦を襲い、博多湾に侵入した

「詳説日本史研究」p153

【宗助国(資国):1207-1274】

当時68歳。一族郎党80騎を従えて、元の大軍を迎え撃つ。弓矢で多くの敵兵を射殺すも、圧倒的兵力差の前に壮絶な討死。軍神として小茂田神社に眠る。

助国どの、見事な最期じゃった…。
男は殺され、女は手に穴をあけて船にくくりつけられて…

最悪だ…。

元軍の対馬侵攻を題材にしたゲーム「ゴースト・オブ・ツシマ」は2022年1月時点で800万部の売上となった様子。ゲームには疎いのでやりませんが、きっと面白いのでしょう。
「アンゴルモア」も対馬編だけでかなり濃厚。白村江の戦いから存在する要塞「金田城(かなたのき)」も登場。某TV番組で「最強の城」に選定されていました。

https://www.club-t.com/sp/special/japan/iki-tsushima/spot/2/

対馬は見どころたくさんで観光スポットとしても注目。「安徳天皇」陵墓も。

宗氏はその後も対馬を治めます。

江戸時代には大陸との交易の窓口として重宝されました。

(※3)壱岐・松浦を経て博多湾へ…

幕府は筑前守護の少弐資能(1198-1281)・経資(1229-92)父子を大将とし、九州の御家人たちを動員して迎え撃った

「詳説日本史研究」p153
教科書のこの記述には間違いが?

日本軍総大将は少弐資能の三男、景資のはず…

のちに、長男・経資と三男・景資は霜月騒動で家督を争い、結果として少弐家は弱体化してしまうのだがな。

【少弐資能】(1198-1281)

筑前・豊前・肥前・対馬・壱岐国などの守護。大宰府最高責任者としてモンゴルの使節にも対応。息子たちとともに2度の元寇を戦う。弘安の役の際の負傷がもとで84歳にて死去。

とりあえずじゃな、元軍の集団戦法の前に個人戦を行う日本軍は太刀打ちできなかったという定説は今一度、考え直してくれ。
日本軍は軍勢が集まると突撃してくるので、断続的に矢を討たざるを得なかった。
そしたら1日で矢を使い果たしちゃったよ。(『元史』)
作戦も何もないんだけど、元軍から見ると波状攻撃に見えたわけだ。
うーん、歩兵が盾をもって並び、その隙間から武士や弓取りが敵を狙い撃ち、接近戦になれば薙刀、打刀で集団戦となった、っていう記述もあるよ。

あまりにも勇猛果敢で、元軍も感嘆したという話もね。(「汎海小録」)

中央:「蒙古襲来絵詞」の竹崎季長。wikipediaより。

(※4)元軍、撤退

元軍は日没とともに船に引き返したが、元軍も損害が大きく内部の対立などもあって合浦へ退却していった。

この事件を文永の役と呼ぶ

「詳説日本史研究」p153-4
教科書は歯切れが悪いが、明確に日本軍が元軍を追い返した、と考えるべきだ。

もっとも「てつはう」には悩まされたがな。

少弐景資
なんせ敵の副将の劉復亨を射落としたんだ。

俺たちの勝ちだろう。

時期的にも「神風=台風」はありえない。

しかし、次の襲撃に備えねばな…。

 
「威力偵察」という見方もあるけど、どうなんだろう?
うぬぬ…1万3500の兵を失ったのか…。

侮れんな…。

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