~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「受領と地方社会」です。

988年の尾張国守・藤原元命への訴状である「尾張国郡司百姓等解文」や「今昔物語」の藤原陳忠が言ったとされる「受領は倒るる所に土をつかめ」のフレーズにより、受領には悪役のイメージがありますが、受領は悪者ばかりではなかったことは頭に入れておきましょう。

以下、「古代史講義」(筑波大学人文社会系准教授、三谷芳幸先生)を参考にさせて頂きました。

受領のイメージ

「尾張国郡司百姓等解文」より…

尾張国受領、藤原元命(もとなが)は住民に過重な負担を強いる、非常な徴税者として描かれる。

「今昔物語」より…

信濃国受領、藤原陳忠(のぶただ)は「受領は倒るる所に土をつかめ」と、貪欲に私利を追求している者として描かれる。

そもそも、「受領」とは

<左が公領、右が荘園>

受領とは現地に赴任した「国司」の首席で、通常は「守」として、その国の行政責任を一身に引き受けています。

律令において、国司は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官が中央から派遣されて、連帯責任を負っていました。

しかし、受領はこの連帯責任を放棄して四等官のトップとして責任を集中させたものです。

郡司から受領へ

受領の任期は4年間です。

もともと、国司のもとで地方豪族である郡司が実質的な徴税業務を担っていました。

しかし、9世紀では「富豪層」とも呼ばれる有力農民が台頭したことで、郡司の権威に翳りが見え、郡司による徴税が困難となり未納分が増えておりました。

そこで、郡司に代わって強力な徴税者となったのが受領であり、中央政府は期待を込めて受領に大きな裁量権を与えることにしたのです。

負名体制

そのような流れを経て10世紀前半に新たに「負名体制」と呼ばれる徴税システムが整えられました。

これまでは人頭税であり、「人」単位で徴税されていましたが、負名体制では、「田」が単位となりました

これにより国司が直接的に百姓を掌握することができました。

10世紀前半に律令制は崩壊して中央権力による地方支配は弱まったとかつては言われていましたが、現在ではそのような単純な見方はされていません。

田地把握のため、10世紀後半には「検田」が強化され、国は「検田使」を派遣して帳簿にまとめました。

「受領」の子分=「目代」

受領が国衙機構を整備していく過程で、徴税を専門に行う「田所」「税所」が設置されまし。

ここで大きな役割を果たしたのが、おもに10世紀後半から活躍する受領の郎等ともいえる人たちです。

彼らは受領が都で雇った私的な従者であり、彼らを大勢連れて受領は赴任しました。

暴力的な方法で徴税したものも中にはいたことは、「尾張国郡司百姓等解文」からも読み取れます。

しかし、多くのものは実務に長けたものが多く、中にはその能力をもって諸国を渡り歩く「プロ郎等」もいたというのです。

彼ら郎等の役職は「目代」であり、在地出身のスタッフの上において国衙行政の主導をさせました。

彼らの中には。「弁済使」など徴税した物資の中から政府への納入分と受領の私的財産を分ける仕事を行うものもいました。

中央政府にとっての受領

中央政府にとっても税収に直結するため、受領の働きは重要でした。

一般的に受領は公卿により選ばれました。

道長・頼通の時代には摂関家の家政機関の職員が豊かな国の受領に選ばれていくこともありましたが、特定の要職をつとめた人物や、受領として一定の実績がある人物を順次任命する「巡任」という制度もありました。

かつての研究では人事の恣意性ばかりが強調されていましたが、それなりに厳格な人事システムが存在しており、中央政府が受領を放任していたというようなイメージは少なくとも間違いです。

郡家は10世紀に消滅

郡司の執務場所である郡家は10世紀に消滅しました。【郡家についてはコチラも

郡司の力は弱体化し、郡家も国衙に吸収されたことを意味します。

しかし、在地勢力は中央の諸勢力と結びつくことで命脈を保ちました。

受領もまた在地勢力の取り込みを行いました。

しかし、立場的には「郎等>在地勢力」であり、それにより領民との板ばさみにあうこともありました。(「尾張国郡司百姓等解文」はこの時期)

もっとも、在地勢力者が国衙に集結し、「在庁官人」と呼ばれるようになる11世紀中頃には安定的な体制が築かれるようになりました。

11世紀後半になると受領の大半は在京で、国務の実権は受領の下で官僚的能力を向上させた「在庁官人」が構成するようになっていきます。

♨「在庁官人」とは受領のもとで実務能力を獲得していった地方の実力者。ただし、受領の郎等である「目代」より地位は低い。

「受領の時代」=「契約の時代」

天皇=神であった8世紀の「神話」の時代から、儒教的支配となった9世紀の「道徳」の時代を経て、受領が活躍する10世紀は「契約」の時代でありました。

受領は朝廷と任国の財政についての契約を行い、任国では負名に対して契約を行いました。

このことは日本古代における文明化の一つの帰結でしょう。

♨試験では
「任国に赴任する国司」→「受領」
「任国に赴任しない国司」→「遥任」
というのがやたら問われるが、そんなことは大して重要ではない、と感じる・・・

★「尾張国郡司百姓等解文」

(現代語訳)
尾張国の郡司百姓らが申し上げます。是非裁判してください。この国の国司の藤原元命が3ヵ年の間に不当に責めとった税、及び乱暴非道のこと31か条について裁決してください。

♨元命は花山天皇期に登用された人物であり、「寛和の変」による花山朝系の官人の排斥に巻き込まれて不当に中傷されたとする見方もある。

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