~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

花山天皇と藤原道長の関係はちょっと深い。まずは、花山天皇の「出家作戦」。この件で道長は父の兼家の指示のもと、作戦に加わる。そして「長徳の変」。花山法皇に矢を放った政敵の藤原伊周は失脚することとなった。ちなみに花山天皇の異母弟が三条天皇で、道長にとっては甥にあたる。

第65代:花山天皇時代(984~986年)

石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」11巻より。道長が父・兼家の主導した「花山天皇出家事件(寛和の変)」に際して発したセリフ。

【花山天皇】…968~1008年。冷泉天皇第1皇子。在位1年 10ヵ月。外戚藤原義懐 (伊尹の子) と右大臣藤原兼家の勢力争いの余波と自身の女性問題を受けて花山寺で落飾、入覚と号し花山法皇と称した。996年の「長徳の変」で再び女性問題とともに、ちょっとかっこ悪く日本史に再登場。

984円融天皇が譲位し、甥の花山天皇が即位。
985源信「往生要集」
986藤原兼家の勧めで出家(寛和の変)。一条天皇が即位。

第66代:一条天皇時代(986~1011年)

石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」11巻、一条天皇の母=道長の姉、 東三条院詮子が伊周ではなく道長の地位を引き上げた場面。実際に、東三条院がこのセリフを発したのかどうかはわからないけど、この1コマで一条天皇、東三条院、道長の関係性を表しているので、やはり石ノ森先生は凄いな、と思う。(改めて石ノ森章太郎先生の「マンガ日本の歴史」は絶対にお買い得。早くしないと売り切れる?コチラ。

【一条天皇】…980~1011。円融天皇第1皇子。7歳で即位。宮廷文化が最も栄えた時。32歳の若さで崩御。

986 花山天皇が出家。一条天皇が7歳で即位。

摂政には藤原兼家。(990年には関白に。)
987藤原道長、倫子と結婚
988尾張国郡司百姓等解(国守・藤原元命の非法を訴える。)

藤原道長、権中納言に出世(この頃より、摂関家の子弟が特別扱いされ、スピード出世するようになる。)
990 藤原道隆娘、藤原定子が一条天皇の中宮となる

(※この定子の侍女が「枕草子」の清少納言。「春はあけぼの…」である。道隆の息子が伊周。21歳で内大臣。)

藤原兼家没。長男の道隆が関白に。道隆の子、伊周(18歳)も特別な速度で出世。
995 藤原道隆が亡くなり、弟の道長が内覧に命じられる(※間に弟の道兼が関白になるもすぐに病死。「七日関白」と呼ばれる。)

一条天皇の母で、道長の姉にあたる東三条院詮子による「道長推し」が効果。以降、伊周と道長の争い。

※【道長の出世の原因はとにかく年長の女性が見方についたこと。こちらも
996 長徳の変。伊周失脚。道長、31歳の若さで左大臣に。

※伊周と弟の隆家の従者が花山法皇を恋敵と思い矢を射る。これにて2人は捕らえられる。密教を行っていた形跡も見られ、謀反の疑いで大宰府へ。隆家は出雲へ。妹の定子は出家してしまう。

※藤原隆家はのちに「刀伊の入寇」で英雄として日本史に再登場。平安時代の裏スター。

【藤原伊周】…974~1010年。藤原道隆の三男(正室としては長男)で道長の甥にあたる。道兼、道長と権力争いするも花山法皇の車に矢をかけたことが原因で左遷。2年後大赦も、36歳で死亡。
997 定子再び入内

※一条天皇の寵愛深く再び入内することとなった。道長は娘の彰子を中宮にしたいと思っていたが、計画が崩れる。
999藤原道長の娘、彰子が一条天皇の女御となる

※彰子は12歳で入内するも立場弱く、道長は定子を皇后、彰子を中宮とすることで解決を図り、史上初めて一帝二后となる。
1000藤原定子が皇后、彰子が中宮となる。

定子没。(25歳)

この頃、清少納言「枕草子」
1004和泉式部日記
1007この頃、紫式部「源氏物語」
1008 彰子に待望の男子産まれる。敦成親王。のちの後一条天皇

※この頃、道長は才能ある侍女を集めていた。「源氏物語」の紫式部、「和泉式部日記」の和泉式部、「栄花物語」の赤染衛門、「伊勢大輔集」の伊勢大輔ら。

平安時代の貴族の間では女性の教養が重視され、文化水準が高かった。
1011一条天皇が譲位し、没する。三条天皇が即位。

藤原実資「小右記」

藤原実資は藤原忠平の長子・実頼の孫にあたる。嫡流意識から道長とは距離をとり、道長にも冷静なツッコミも書いたりしている。「この世をば~」の出典もコレ。

藤原隆家の刀伊撃退を「私闘だから恩賞は不要」とする藤原公任を、「そんなことをしたら誰も戦わなくなる!」と論破。【コチラ

※道長の日記は「御堂関白記」。

宮廷サロン×百人一首

42番:清原元輔(清少納言の父)

契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは

45番:謙徳公(藤原伊尹:藤原師輔の長男)

あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな

49番:大中臣能宣(伊勢大輔祖父)

御垣守衛士のたく火の夜はもえ 昼は消えつつものをこそ思へ

50番:藤原義孝(藤原伊尹三男)

君がため惜しからざりし命さへ ながくもがなと思ひけるかな

53番:右大将道綱母(藤原兼家の第2夫人)

歎きつつひとり寝(ぬ)る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る

54番:儀同三司母(藤原道隆の妻、伊周の母)

忘れじの行末までは難ければ 今日をかぎりの命ともがな

55番:大納言公任(藤原頼忠息子)

滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ

56番:和泉式部

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな   

♨ …「浮かれ女」by紫式部。イワシ好き。

57番:紫式部

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな

58番:大弐三位(紫式部娘)

有馬山猪名のささ原風吹けば いでそよ人を忘れやはする

59番:赤染衛門(藤原道長を書いた「栄花物語」作者)

やすらはで寝なましものを小夜更けて 傾くまでの月を見しかな

♨ …「とくにすぐれていない」by紫式部

60番:小式部内侍(和泉式部娘)

大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立

61番:伊勢大輔

いにしえの奈良の都の八重桜 きょう九重ににおいぬるかな

62番:清少納言

夜をこめて鳥のそら音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ

相手は藤原行成。枕草子は現代にも通じるところがあり、おもしろい。

63番:左京大夫道雅(藤原伊周の息子)

今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならで言ふよしもがな

64番:権中納言定頼(藤原公任の息子)

朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木

68番:三条院

心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな

⇒【百人一首は鎮魂歌?百人一首についてはコチラも

勅撰和歌集

①古今和歌集(905年、紀貫之ら) 醍醐天皇
②後撰集(961年、清原元輔ら) 村上天皇
③拾遺集(996年、藤原公任ら) 一条天皇
④後拾遺集(1086年、藤原通俊ら) 白河天皇
⑤金葉集(1126年、源俊頼ら) 白川院
⑥詞花集(1141年、藤原顕輔ら) 崇徳院
⑦千載集(1187年、藤原俊成ら) 後白河院
⑧新古今和歌集(1205年、藤原定家ら) 後鳥羽上皇

次章は三条天皇、後一条天皇時代