こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「三条天皇、後一条天皇」の時代です。
この時代は藤原道長の全盛時代でもありました。
しかし、彼のピークは「望月の歌」を読んだところまででしょうか(1018年)。
翌年の刀伊入寇(九州に海賊となった渤海移民が攻め込んだ事件)では何の指導力も発揮できませんでした。
また、彼の死の翌年(1028年)、平忠常の乱が起きました。
藤原道長の息子、関白・藤原頼通が手を焼く一方、朝廷でも摂関家でもない源頼信がこれを制しました。
「武士の世」が近づいてきました。
第67代:三条天皇期(1011年~1016年)
【三条天皇】…976~1017年。冷泉天皇第2皇子。母は藤原兼家の娘、超子。
左大臣藤原道長の全盛期で、その娘妍子(けんし)を娶ることになるが、先に結婚していた娍子を皇后に選ぶ。
道長とは反りが合わず、また、道長の圧力、自身の眼病により道長外孫の後一条天皇に譲位することになった。
翌年42歳で死去。
「心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな」
※風貌は道長の父、兼家にそっくりだったらしい。
1011 | 一条天皇、病気で退位。冷泉天皇皇子の三条天皇即位。 敦成親王(後の後一条天皇)は皇太子となる。 |
平安時代の両統迭立その2
この時代、冷泉系と円融系が交互に即位していました。
【その1はコチラ】
<冷泉系> | <円融系> | |
第63代 | 冷泉天皇(村上天皇第2皇子) | |
第64代 | 円融天皇(村上天皇第5皇子) | |
第65代 | 花山天皇(冷泉天皇第1皇子) | |
第66代 | 一条天皇(円融天皇第1皇子) | |
第67代 | 三条天皇(冷泉天皇第2皇子) | |
第68代 | 後一条天皇(一条天皇第2皇子) | |
第69代 | 後朱雀天皇(一条天皇第3皇子) | |
第70代 | 後冷泉天皇(後一条天皇第1皇子) | |
第71代 | (後三条天皇:三条天皇孫) | 後三条天皇(後朱雀天皇第2皇子) |
♨冷泉系は三条天皇が最後。
しかし、後三条天皇の母は三条天皇の娘である。
(つまり、後三条天皇の祖父が三条天皇)
後三条天皇は冷泉天皇系でもあり、円融天皇系でもある。
♨三条天皇と娍子の間に子供がいたが、藤原道長の圧力の前に立太子を辞退した。
第68代:後一条天皇期(1016~1036年)
【後一条天皇】…1008~1036。一条天皇第2皇子。母は藤原道長の娘の彰子(しょうし)。
9歳で即位。道長が摂政。29歳で死亡。
在任中に女真族襲来(刀伊入寇)、平忠常の乱などが起きる。
1016 | 後一条天皇9歳で即位。 藤原道長が摂政となる |
1017 | 道長が摂政を息子の頼通に譲る |
1018 | 望月の歌(道長) 「この世をば わが世と思う 望月の 欠けたることもなしと思えば」 (※次女の威子が後一条天皇に入内した際に詠んだとされる。) |
1019 | 刀伊(女真族)襲来 (※女真族=契丹により無国籍となった渤海民。対馬、五島列島、北九州を襲撃。藤原隆家が、大蔵種材を総大将として戦う。) 【藤原隆家】…979~1044年。藤原伊周の弟。道隆の4男。長徳の変で失脚。のち自ら志願して大宰府へ。この時期に隆家が大宰府にいたことは大きな意味を持った。 |
1027 | 藤原道長死亡。 |
1028 | 平忠常の乱(~1031) (※乱に特に明確な目的があったわけではないが、関東地方に広がった。関白・藤原頼通は追討軍を送るも3年も平定できず、源頼信が征討に向かうことが決定した途端、忠常降伏。以後、平氏の力が強かった関東で、源氏の力が強まる。←コレが歴史的意義。) |
1030 | 平忠常追討に甲斐守源頼信が命じられる。平直方は召集。 |
1031 | 平忠常降伏。 【平忠常】…宿敵・平直方が追討使だった頃は徹底抗戦の構えであったが、源頼信が追討使になった途端、一度も源頼信と戦うことすらなく降伏。京都への移送中に死亡。 |
1035 | 園城寺と延暦寺の争い勃発 後一条天皇病没。弟の後朱雀天皇が即位。 |
藤原道長
石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」11巻より。再掲。
【藤原道長】…966~1027年。5男であり、本来は出世の芽はないが、義母、実姉の「引き」、兄たちの死、甥の伊周の自滅があって出世することが出来た。
政治家としての道長は特別に優れた政策はもたなかった。それは刀伊賊の入寇(1019)に際しての無策によっても指証される。
しかし国内の政情は安穏であり、代々培われた摂関家の勢威が強固であったため、政界は事なきを得たといえよう。
彼がもっとも腐心したのは後宮政策であって、次々と娘を宮中に入れ、外孫が登位することによって不動の地位を得、かつそれを息子たちに及ぼした。
また、道長は、政治家として冷酷非情な人物ではなかった。政敵を倒すことは、どの政治家にも避けがたいことであるが、彼の場合は、いったん失脚した政敵を厚く遇し、かつ娘を配したりして、彼らの恨みを買わぬように配慮していた。
また妾妻たちを女房として後宮の各所に仕えさせ、もろもろの情報を収集することも、彼の常套手段であった。おそらく紫式部は、その意味での妾妻の一人であったのであろう。
藤原道長の娘たち
彰子
【藤原彰子】…988~1074年。道長の長女。第66代一条天皇と結婚(ただし、皇后は定子)。後一条・後朱雀両天皇を生み、道長による藤原氏全盛を可能にした。紫式部・和泉式部・赤染衛門らの才媛が仕えた。
妍子
【藤原妍子】…994~1027年。道長次女。第67代三条天皇と結婚。 (ただし、皇后は 娍子 ) 特に美人で、派手好きだったという話も。
威子
【藤原威子】…1000~1036年。道長四女。第68代後一条天皇(彰子の子)と結婚。(つまり、姉の子供と結婚することになった。)1018年入内。時に天皇11歳、威子20歳。同母姉太皇太后彰子、皇太后妍子と共に「一家に三后が立つ」前代未聞の事態となった。
『栄花物語』に「総じて有様、ふるまひともに奥ゆかしく、並ぶ人もない様子」とあるように、控え目で性格の優しい女性だったようだ。後一条天皇の死後あとを追うように38歳で没し、女房たちを嘆かせた。
※後一条天皇との間に皇子は生まれず。
嬉子
【藤原嬉子】…1007~1025年。第69代後朱雀天皇と結婚し、皇子は後冷泉天皇に。しかし皇子を産んだ2日後、19歳で死亡。
刀伊入宼(1019)
「刀伊」とは渤海の遺民たちの呼び名。契丹に国を奪われて海賊となっていた。対馬にも上陸したが、藤原隆家らが地方の豪族、海賊に呼びかけて征伐した。
♨こういう日本の国防に関わる大事件が起きてもなお藤原氏は権力闘争をしている有様。
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平忠常の乱(1028-1031)
最終的に源氏に頼らざるを得なかったということがポイントである。討伐にあたったのは源頼信。
石ノ森章太郎「マンガ日本の歴史」12巻より。鍛錬を行い、兵の道を説く源頼信。当時の武士の騎射能力の高さは棒を3本とも射ることができたりするなど、とんでもない。