~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期㉙:1324年」です。

「倒幕計画」発覚により、後醍醐天皇の側近が処分された最初の事件です。

元亨4年/正中元年(1321年)年表

6/25後宇多上皇、死去

※後醍醐天皇が自分の子孫を天皇にするには、大覚寺内部の争い、持明院統との争いを制す必要があった。
※しかし、後宇多上皇は、後醍醐天皇を一代限りの天皇と考えていた。
※「おもし」が取れたことにより、後醍醐は倒幕計画を加速させる。
※鎌倉幕府は両統迭立を是としていたため、鎌倉幕府の存在も邪魔だった。
9/19正中の変(※1)

※後醍醐が倒幕のために集めた武士の1人、土岐頼員(よりかず)が妻に計画を話し、妻が六波羅探題に勤務する父に密告。
※幕府方は、計画に参加していた武士の土岐頼有(よりあり)・多治見国長(くになが)らを討ち取る。また、公家の日野資朝、日野俊基を捕らえた。
※土岐頼員は、持明院統、あるいは邦良親王派が後醍醐天皇の失脚を狙って、密告させられた可能性が考えられる。
9/23後醍醐天皇、万里小路宣房を鎌倉へ送る

※「謝罪」ではなく、「真の首謀者を捕まえよ」という「司令」のため。
※幕府も一度は後醍醐天皇から邦良親王への譲位を考えたと思われるが、慎重な調査の結果、後醍醐天皇を「冤罪」とした。
12/9正中に改元

※「甲子」年に多いとされる、変乱を防ぐ目的で。
(つまり、「正中の変」自体は「元亨」年間に行われていた)

(※1)正中の変

日野資朝ら後醍醐天皇の側近の公家たちは、ウマの合いそうな武士たちを寄せ集め、何度も宴を開いていました。

その中に、鎌倉幕府倒幕計画もあったようです。

毎年9月は、北野天満宮の祭りの警備のため、六波羅探題が手薄になります。

さらに、この年は六波羅探題南方の大仏惟貞が留守ということが判明していました。

そこで、彼らはそのタイミングで六波羅探題に攻め込み、北方である北条範貞を殺害し、

興福寺の宗徒を指揮して、瀬田と宇治を封じるという計画を立てました。

しかし、この計画は六波羅探題の知るところとなり、

決行4日前に幕府軍が急襲

武士の多治見国長、土岐頼有らは戦死、

日野資朝、日野俊基は幕府に捕らえられました

実際には元亨年間に行われたことですが、

改元によって1324年=正中となったため、

この事件のことを、「正中の変」と呼びます。

さて、なぜ幕府が計画を知った理由は諸説あります。

1つは、計画を知った土岐頼員という武士が、妻に話したところ、妻が六波羅探題で奉行を行っている父に密告したという説、

もう1つは持明院統、あるいは邦良親王派が土岐頼員をスパイとしてつかって、後醍醐天皇の失脚を狙ったという説です。

いずれにしても、計画の杜撰さ、秘密保持のゆるさが、指摘されております。

しかしながら、幕府は審議の結果、日野資朝は佐渡へ配流、日野俊基は無罪とする比較的穏便な処置で済ましました。

花園天皇
えー?なんで後醍醐、有罪じゃないんだよー。

後醍醐が兵を集めてるのは事実でしょうがー。

もう大覚寺統なんてやめちゃいなよー。

鎌倉幕府
えー、我々もちゃんと調査したんですよー。

でも、あんまりそこに時間を割きたくないというのも事実、、

安藤氏の乱で手一杯なんです。

後醍醐天皇
謝罪?そんなものは必要ない。

「真犯人を捕らえろ」!

万里小路宣房
私が幕府へ働きかけたことで処置が甘くなったのですよ、、

(実際はひたすら頭を下げた)