~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期㉘:1319-23年」です。

1321年の辛酉革命年より、後醍醐天皇の親政が始まりました。

文保3年/元応元年(1319年)年表

4/28元応に改元

※後醍醐天皇即位にともない。
9/15鎌倉殿中問答

日印(法華経)が諸宗派を論破して、布教を認めさせた。
※内管領・長崎円喜の邸宅で行われる。
日蓮
日印(1264-1329)は私の孫弟子にあたるのじゃ。

彼は新潟の子で、佐渡ヶ島に流される時に、一度出会ってる。

元応2年(1320年)年表

-/-出羽の蝦夷、再蜂起

※根本には両安藤氏(外の浜安藤氏と西浜安藤氏)の対立がある。
※そこに、内管領・長崎高資が双方から賄賂をもらっていたことが混乱に拍車をかけたとされる。【蝦夷太平記の紹介はコチラ
長崎円喜
今、日本を牛耳っているのは執権・北条高時ではなく、長崎円喜・高資親子なんじゃよ。

元応3年/元亨元年(1321年)年表

2/23元亨(げんこう)に改元

辛酉(しんゆう)革命による
12/9後宇多法皇(55)、院政を停止。後醍醐天皇(33)による親政が始まる。(※1)

※後宇多法皇引退の意図は、①自身が仏道に専念するため、②後醍醐に経験を積ませるためなどが考えられるが定かではない。
※後醍醐は「記録所」を再興。
※吉田定房(さだふさ)、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、北畠親房(ちかふさ)、日野資朝(すけとも)、日野俊基(としもと)らを登用。
後醍醐天皇
辛酉(かのととり)の年は革命年にあたるという。

桓武天皇も781年に即位して王統の交代を印象づけた。

次は私の番じゃ。

私は記録所(訴訟などを扱う)に自ら出廷するぞ。

※ちなみに、近年では後醍醐天皇の政治は、後宇多天皇の先例を踏襲した部分も多く、必ずしも革新的で特異という説は見直されてきているようです。

元亨2年(1322年)年表

8/16虎関師錬「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」を著す

※臨済宗の僧。仏教伝来から700年あまりに及ぶ、日本初の仏教通史。
-/-安藤氏の乱、激化(~1328)

※幕府の腐敗および、軍事力の低下が露見。
一山一寧殿に、日本の仏教史をうまく説明できなかったことをバネに頑張って作りました、、

私、虎関師錬(こかんしれん)です。

「錬」の字は「練習」の「練」ではなく、「かねへん」の「錬」ですのでご注意を。

元亨3年(1323年)年表

-/-特記事項なし

(※1)後醍醐天皇の親政開始

後醍醐天皇
(1288-1339)
今日は私の側近を紹介しよう。

吉田定房(よしだ さだふさ)

1274-1338。後醍醐天皇の乳父。それにも関わらず後醍醐天皇の2回目の倒幕計画を六波羅探題に密告(1331)したことで歴史に名を残す(元弘の変)。しかし、これは後醍醐天皇の身を案じてのこととも言われており、建武の新政では後醍醐天皇に重用されている。

万里小路宣房(までのこうじ のぶふさ)

1258-1348。吉田定房、北畠親房とともに、後醍醐天皇に重用され「後の三房」と呼ばれる。とはいえ、3人は後醍醐に見出されたわけではなく、その父・後宇多天皇の側近だった。建武の新政失敗後は京都に居残り北朝に仕え、万里小路家は幕府との折衝などの役割を担う。

北畠親房(きたばたけ ちかふさ)

1293-1354。後醍醐に重用されたが、むしろその皇子で後醍醐と対立していた護良親王と考えが近かった。そのため、半ば左遷のような形で息子の顕家とともに奥州へ渡る。息子の戦死後は吉野に渡り、南朝の勢力拡大を目指して奔走する。著書「神皇正統記」と「職原抄」が有名。

北畠顕家
息子の顕家です。

よく引っ掛け問題で出されますので要注意です。

私が書いたのは「北畠顕家上奏文」。

後醍醐天皇の「無茶振り」への批判です。

日野資朝(ひの すけとも)

1290-1332。もともとは父および兄弟とともに持明院統に仕えていたが、親政を始めた後醍醐に登用された。のち、後醍醐天皇の倒幕運動に加担したとして、1324年・正中の変で逮捕。佐渡ヶ島に流される。2度目の倒幕計画発覚となった1331年・元弘の変が起こると佐渡にて処刑された。日野俊基は同族。

日野俊基(ひの としもと)

?-1332。後醍醐天皇の倒幕運動に加担したとして、1324年・正中の変で逮捕。その時は放免されたが、1331年・元弘の変で再び倒幕運動への加担が疑われて逮捕。今度は処刑された。