~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期㉖:1316-7年」です。

1316年、執権は数え年14歳となった得宗・北条高時へ。

もっとも、政治の実権は家臣の長崎高資(長崎円喜の息子)に握られておりました。

一方、京都では天皇位をめぐって持明院統と大覚寺統が幕府へ工作をする争いが続いておりましたが、

1317年の「文保の和談」により、幕府は皇位継承に関与しないことが伝えられます。

正和5年(1316年)年表

6/20大地震

※7月にかけて地震があったようだが、場所の特定はできず。
※京都の可能性も。
7/10北条高時(13)、執権となる

※数え年で14歳。
※父と同じく、14歳で執権就任。
※しかしこの頃には長崎円喜の息子、長崎高資が権勢を強めていた。

北条高時(13)
数え年14歳になったので、いよいよ執権就任しました。

ただ、相変わらず病気がちでして…。

調子の良い時は田楽を楽しむことができるのですが…。

近年では鎌倉幕府崩壊理由を高時クンの田楽・闘犬狂いだけに求めることはないですからねー。

正和6年/文保元年(1317年)年表

2/3文保に改元

※大地震などにより改元
4文保の和談(※1)

※近年では「文保の和談」、「両統迭立」は合意されていなかったとされる。
9/3伏見上皇(52:持明院統トップ)死去

※後深草天皇の息子が伏見天皇(字がうまい)。
※伏見天皇の息子が、「後伏見天皇」と「花園天皇」(勉強熱心)。

(※1)文保の和談

両統は天皇位の交代のたびに幕府に工作し、次代の天皇を自統から出そうと画策した。幕府は両統が交互に即位する両統迭立を勧め、1317年には次代の天皇について両統がよく話し合って決定するよう申し入れた。両統は勧告にしたがって協議した(文保の和談)。幕府はこのとき、今後、皇位の継承には干渉しない、と朝廷に宣言したという。

詳説日本史研究p173
ちょっと正直、迷惑してました。

もう10年を目処に順番にやってくださいな。

なかなかそういうわけにもいかなくてですねー。

困ったもんです。

後醍醐天皇
ふふふ、そんな約束、反故にしちまえばいいんだろ。

私こそ、そして私の家系こそ天皇に相応しいんだから。

こんな人を天皇にするとは…

両統迭立 略年表

1242四条天皇が幼くして死去

→朝廷は順徳天皇の皇子を皇位につけようとする
→しかし承久の乱を起こした後鳥羽天皇に考えが近かった順徳天皇(後鳥羽天皇第3皇子)の血筋を幕府(北条泰時)が嫌い、土御門天皇(後鳥羽天皇第1皇子)の息子、後嵯峨天皇を即位させた。

幕府が実力行使に出たのはこのときだけであるが、幕府に皇位決定権があることを示す結果にもなった
1246後嵯峨天皇、皇位を後深草天皇に譲位して院政を行う
1259後嵯峨院、皇位をもう1人の皇子、亀山天皇に譲らせる

※この判断がすべての元凶。
※皇太子には亀山天皇の息子(のちの後宇多天皇)。
※後深草院が面白いわけない。
1272後嵯峨院、院政の後継者を指名せずに崩御

※最終的に2人の母の意見で亀山天皇が治天の君となったが、以後ずっと、後深草院派(持明院統)と亀山天皇派(大覚寺統)が争うことに。
1274亀山天皇、息子の後宇多天皇に譲位して院政を行う

→後深草院が幕府に工作して、皇太子は持明院統から出すことが決定
1285霜月騒動

※亀山院と親しかった有力御家人の安達泰盛死去。
1287伏見天皇(持明院統)即位
1293平禅門の乱

※内管領・平頼綱が北条貞時により誅殺。
1298後伏見天皇(持明院統)即位

→持明院統が2代続いたため、今度は大覚寺統がクレーム
→皇太子は大覚寺統から出すことが決定、譲位の圧力も行う。
1301後二条天皇(大覚寺統:後宇多天皇皇子)即位
1308後二条天皇の急死により花園天皇(持明院統)即位

※皇太子には大覚寺統より尊治親王(のちの後醍醐天皇)。病弱であった邦良親王(後二条天皇皇子)の立太子は見送られた。
1317文保の和談

※後醍醐天皇の皇太子には邦良親王(大覚寺統:後二条天皇の息子)とする。
※幕府は今後、干渉しない。
1318後醍醐天皇(大覚寺統:後宇多天皇皇子)即位
後嵯峨がすべての元凶じゃないのかー?
それを言うなら皇位に口出してきた幕府が悪いんじゃないか?

忠成王(順徳天皇皇子)が即位していたらこんなことには?

それを言い出したらキリがなかろう。

そもそも、いたずらしようとしてすっ転んで頭打って死んだ四条天皇も誤算。

後醍醐天皇
いずれにせよ、そもそも天皇になれる見込みのなかった私が天皇になったということは、世が私を必要としているということだな…。
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