~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【平安時代×略年表16:白河院政絶頂期の影で雌伏の時代を過ごす若き鳥羽天皇時代】

第74代:鳥羽天皇期(1107~1123年)

【鳥羽天皇】1103~1156。生後まもなく母が死亡。白河法皇のもとで育てられた。5歳の時に父親の堀河天皇も早世したため、5歳で即位。20歳で第1皇子の崇徳天皇への譲位を命じられた。この時期、白河法皇の院政絶頂期。

白河法皇の死後は息子の崇徳天皇(1119生)、近衛天皇(1139生)、後白河天皇(1127生)の父として、28年にわたり院政を敷く。

1107 源義親の乱

義親は武勇で名高いが、対馬守時代に朝廷の遣いを斬るなど横暴を究めた。罰として隠岐へ流されていたが、隠岐を脱出し、今度は出雲で暴れまわっており、これを鎮めたのが清盛の祖父・正盛であった。これをきっかけに平氏は力を増した。

★一方、義家のもう1人の子・義国と義家の弟・義光は常陸国の支配をめぐって合戦中。
1108 平正盛が義親を討つ

(※出発してから20日足らず。)

★桓武天皇ーー高望王ー平貞盛(将門の乱を平定)-平維衡(伊勢平氏の初代)-平正盛

【平維衡】…平貞盛の息子。1006年、右大臣藤原顕光の推挙で伊勢守となった。藤原道長は、事件(998年、伊勢を巡って同族と争う)を起こした国の守に任命するとはなにごとかと憤慨したという。清盛へと続く伊勢平氏の祖である。

【平正盛】…1097年に伊賀の所領を六条院に寄進して白河法皇に接近、北面武士となる。源義親の反乱追討や伊予の海賊の追捕に活躍。また法皇の造寺、造塔にも功をたて、因幡、讃岐などの国司もつとめ、伊勢平氏の中央進出の基礎をきずいた。清盛の祖父。天皇家との結びつきを重視。

延暦寺僧徒が入京を試みるが源平両氏により阻まれる
1113平忠盛(正盛の息子)、盗賊夏焼大夫を追捕した功により、父に先んじて従五位下(左衛門尉)に任じられた。(正盛が従五位になったのは6年後)
1117白河法皇のもとで育てられた 璋子(藤原公実娘、後の待賢門院)が鳥羽天皇の中宮となる
1120関白藤原忠実が娘・泰子をめぐって白河法皇と亀裂。忠実は宇治に籠居させられる。

白河法皇が璋子がいなくなった心の隙間を埋めようと関白娘の泰子を要求するが、関白がこれを断ったために亀裂となったという。(マンガ日本の歴史13巻)
1123 白河法皇の命で崇徳天皇に譲位。

【崇徳天皇】…1119~1164年。在1123~1141年。鳥羽天皇第一皇子。鳥羽上皇の圧力で異腹の近衛天皇に譲位した。のち保元の乱を起こし、讃岐に配流され、同地で没した。

白河法皇によって育てられたが、白河法皇のせいで思うように力を発揮できなかった。そんな鳥羽天皇が院政を敷くのは6年後、白河法皇の死を待って、である。

・・・後三条院の崩後、天下の政をとること57年、意に任せ法に拘らず除目叙位を行い給う。古今未だあらず。・・・男女の殊寵多きにより、すでに天下の品秩破るるなり・・・

「中右記」

法皇時代の鳥羽天皇。写真はwikipediaより。