~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期㉛:1327-30年」です。

長崎高資が双方から賄賂をもらってことで混乱をきわめた東北の「安藤氏の乱」は一応の和解を見せました。

一方、後醍醐天皇は息子の護良親王を比叡山に送り込むなど、着々と倒幕計画を進めます。

また、後醍醐天皇は跡継ぎ作りにも励み、少なくとも8人の皇子をもうけました。

嘉暦2年(1327年)年表

-/-安藤氏の乱へ幕府が増援

※幕府は蝦夷征討使として宇都宮高貞、小田高知(のち小田治久)らを派遣する。
12/6護良親王(後醍醐天皇皇子、19歳)、天台座主となる(~1329/2/11)

※後醍醐天皇は寺社を味方につけるべく、息子を送り込んだ。
※護良親王は比叡山で武芸に励む。
※この動きを持明院側も「乱の萌芽」と見抜く。
-/-足利直冬、出生

※足利高氏23歳。
宇都宮高貞のお兄さん、宇都宮公綱は「坂東一の弓取り」として楠木正成に恐れられました。

幕府崩壊後は東国の南朝方として戦うことになるのですがね。

小田氏は八田知家を祖とする名門中の名門ですが、末裔の小田氏治は「戦国時代最弱の大名」とあだ名されたりもします。

ただ、何度も城を奪われては何度も取り返すなど、頑張っていた時期もあったんですが、、

護良親王
ちなみに私、比叡山で武芸ばっかりやってたみたいな書かれ方をしますが、ちゃんと天台座主として僧の仕事もこなしていたんですよ。

嘉暦3年(1328年)年表

-/-安藤氏の乱、和談成立

※季長にも所領の一部が認められたと考えられる。
10/-義良(のりよし)親王(のちの後村上天皇)、出生

※後醍醐天皇と阿野廉子の間に。
※のち、北畠親房らとともに奥羽将軍府に赴く。
※後醍醐天皇は少なくとも8人の皇子、8人の皇女をもうけた。義良親王が7番目。
護良親王のイメージはこんな感じ。若くして頭脳明晰、容姿端麗、武芸達者。

嘉暦4年/元徳元年(1329年)年表

1/-後醍醐天皇、春日社、東大寺、興福寺などに行幸

※僧兵らを味方に引き入れようと画策した。
※さらに日野俊基らを山伏に変装させ、各地の政情や武士の動向を調査させた。
2/11護良親王、天台座主辞任
-/-懐良親王、出生

※後醍醐天皇の第8皇子、懐良親王出生。母は藤原(二条)藤子(側室)。
※懐良親王はのちに九州に渡り、「日本国王」を名乗り明と冊封関係を結ぶなど、数奇な運命を辿る。
12/14護良親王、再び天台座主となる(~1330/4)

※頭脳も優秀でありながら、ここでは免許皆伝となるほど武芸を磨いた。
懐良親王
建武の新政が失敗しなければこんなことにならなかったのでしょうがねー。

でも、兄弟の中では最後まで頑張った方だと思います。

元徳2年(1330年)年表

6/18足利義詮、出生

※のちの2代将軍。足利高氏と赤橋登子の間に生まれる。
-/-後醍醐天皇、倒幕計画に反対した中原章房を暗殺

※もし倒幕に失敗したら再び皇室の地位は低下すると諌める中原章房を暗殺する。
-/-「徒然草」、この頃つくられた可能性

※正式な成立年は不明。1330年頃と1350年頃、二期という説もある。
12/-宗良親王、天台座主に就任

※護良親王の3歳下の異母弟。
※梶井門跡だった護良親王に対して、宗良親王は妙法院門跡に就任していた。(門跡=皇族、貴族の子弟などの出家先)
※建武政権崩壊後の宗良親王は、後醍醐天皇の分身のごとく、東国を転戦する。