~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期②:1269-70年」です。

フビライは再び使節団を送りました。

今回は前回より威圧的なものです。

朝廷は返書の準備を行いましたが、

北条時宗は返書を行わず、「黙殺」することを決定します。

文永6年(1269年)年表

1269/2フビライ、再び使節団を送る

※75人が対馬に上陸
※日本側はこれ以上先へは行かせないとする
※使節団と島民が喧嘩になり、使節団は島民2人を拉致
1269/9拉致島民護送目的で使節団再来日。再び牒状が届く(※1)

※対馬島民は返還
※「フビライ」からの「国書」ではなく、「中書省」からの「国書」。
今回の内容は明確に服属を求めるものであった
※高麗国からの国書も届けられた。
朝廷は返牒を送ろうとしたが、幕府がこれに反対

(※1)再び牒状が届くが…!

フビライは翌1269年、再び国書を届けた。朝廷は元の要求は拒否するにせよ返書を送ることを提案し、草案まで作成したが時宗は断固としてこれを拒絶した

「詳説日本史研究」p153
朝廷
一応、返事を書いたのですが、、、

あ、もちろん断りますよ、

こんな無礼な手紙。

 
 
時宗
返事なんて必要ない。

 

既読スルーで結構。

(というか、まだ戦争準備が整っていないので時間稼ぎせねば…)

うぬぬ…

 

こりゃ侵略決定だな、高麗よ、準備しとけよ。

はい。準備しているんですけどね、抵抗勢力もありまして…
あ、私、対馬島民です。

高麗人に拉致されてどうなることかと思ったら、

 

フビライさんの宮殿や、都であると大都を見せてもらいました。

日本の正式な使節と伝えられていたのかな?

うーん、すごかったです、、、

南宋の学者たちからモンゴル帝国のことは聞いておる。

お前らの好きにはさせん。

next:1271年には元から趙良弼が訪日します。また日蓮上人は舌禍とされ佐渡配流となりました。