~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期⑲:1297年」です。

この年に発令された「永仁の徳政令」は日本史の教科書に必ず出るのですが、

その多くの条文が「1年で撤回された」ことはあまり知られていないでしょうか。

永仁5年(1297年)年表

3/6「永仁の徳政令」発令(※1)

※幕府が御家人の窮乏を救うため、
(1)越訴(再審請求)の禁止、
(2)所領の質入れ、売買禁止、すでに売却した領地は持ち主に返却
(3)御家人を対象とした金銭訴訟は受理しない
と定めた。
※(3)御家人が債務不履行したとしても、その裁判は受け付けない(=借金の返済をしなくても罪にならない)」としたことで、御家人はむしろ借金しにくくなり生活が困窮した。
翌年2月、徳政令の大部分を撤回。(2)の一部である「土地の無償取り戻し条項」のみを残し、他の条文は廃止される。
8/6内管領・長崎光綱・死去

※平禅門の乱以降の内管領(得宗家執事)を務めていた
※内管領は基本的に世襲制だったが、光綱死去後は世襲が崩れる。
※再び世襲に戻るが、息子の長崎円喜が内管領を務めることとなったのが1305年。

(※1)永仁の徳政令

実は元寇以前から御家人の生活は困窮していました。
1240年には御家人領の売却禁止、1267年には所領の質流れを禁止し、すでに売却・質流れした所領は無償で取り戻しできる方策を出していたんですがね。
それでも所領を失う御家人は多かったんですねー。
人口は増えても、土地はこれ以上増えない。

そのため土地が細分化されて、それぞれ貧しくなる。

分割相続に耐えきれず、まず女子の相続が削られ、そのうち惣領のみの「単独相続」になるのです。

あと、この時期は宋銭が大量に流入した時期ですが、

御家人たちが貨幣経済に対応できなかった、という問題もありました。

逆にいうと、13世紀は貨幣経済に対応して力をつけていった「有徳人(うとくにん)の時代」といえます。
いずれにしても、「永仁の徳政令」で御家人の没落を食い止めることはできませんでした。
借りたお金は返さないとな。

借金帳消しとか、そんな上手い話はないだろう。

「徳政令」の部分だけではなく「越訴」禁止も実は大きい。

貞時様の下した判決に異議を唱えることができなくなった。

どんな点が問われる?

関東御事書の法

一、質券売買地の事。永仁五年三月六日
右、地頭・御家人の買徳地においては、本条を守り、廿箇年を過ぐるは、本主取り返すに及ばず。非御家人ならびに凡下の輩の売徳地に至っては、年紀の遠近をいはず、本主取り返すべし。

「超解!日本史史料問題」p80

(現代語訳)
鎌倉幕府の法令

一、質流れになって売買された土地のこと。永仁5年(1297年)3月6日
地頭・御家人が買いとった土地は本条の規定どおり20年をすぎたものは売主はとりかえすことができない。御家人以外の武士と庶民の買った土地については年数の長さにかかわらず売主はとり戻すことができる。

(1)この法令は何か。(→「永仁の徳政令」
(2)何年の発令か。(→1297年
(3)誰が発令したのか。(→北条貞時
(4)当時の高利貸を何というか。(借上:かしあげ
(5)本条とは何か。(→貞永式目=御成敗式目)

「超解!日本史史料問題」p81
借上は「かりあげ」じゃなくて、「かしあげ」なのかー。

借上(かしあげ)(≠かりあげ)

貨幣の流通が盛んになるにつれ、貨幣の取引や貸付を専門に行う金融業者も現れた。この高利貸業者が借上(かしあげ)である

「詳説日本史研究」p161
なんせ日本に流入した宋銭が膨大なんです。

元で紙幣を始めたから宋銭が余ったんですけどね。

鎌倉初期には米による土地売買が40%だったのに対して、

鎌倉後期では米による土地売買が15%で、銭が85%。

貨幣経済は農村にも浸透しました。

商品の中継ぎと委託販売、運送を取りまとめていたのが「問(問丸)」という業者。

交通の要地に根を張り、物資を倉庫に納入して適当な時期に市に出して利益を上げた。

「問屋」の起源でもあるんだよ。

「借上」と「問丸」はセットで覚えておくと良い

こうした流通は畿内や瀬戸内海で顕著でしたねー。

民間では「頼母子(たのもし)・無尽(むじん)」と呼ばれる相互金融システムも作られましたね。

「手工業の発達」、「農業生産力の増大」、「定期市の開催」なども鎌倉時代の特徴です。

鎌倉時代というと武士のイメージが強いかも知れませんが、それだけではないんです。

貨幣経済の進展により有徳人(今で言えば「ヒルズ族」)が出現。有徳人は各地とネットワークを築き流通を有利に進めた。商人でもあるが、僧侶も多く含まれていたことが特徴でもある
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