~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

【中世ならコレ!】『戦争の日本中世史』(呉座勇一、2014年、新潮選書)【読書メモ編:前編】

呉座先生。

「応仁の乱」が有名ではあるが、最も世に出したかった本は本書じゃないかと勝手に思っている

以下、読書メモと雑感。

本書は「厳選5冊」でもとりあげた【コチラ】が、これ1冊でかなり広い範囲をカバーできるので通読をオススメする。【後編はコチラ

【追記】出だしは遅かったものの、じわじわと閲覧数が増え、ついにこのblogにおける閲覧ランキングで本書が1番になった(2019/06/27)。「応仁の乱」、「陰謀の日本中世史」が有名なのはわかるが、受験生がまず買うべきはコレだと思う。

目次

はじめにー戦争の時代としての日本中世

中世とはいつからいつまでか?

⇒保元の乱・平治の乱による平氏の台頭にはじまり、戦国大名の登場まで

short summary

♨戦後の中世史研究では、「新興勢力の勃興によって既存の秩序が壊されるという下剋上期」と言われていたが、必ずしも戦争の実態を具体的に考察したものではない。現在の戦争論はいまだにマルクス主義をひきずって「被支配階級vs支配階級」と捉えられてしまいがちであり、「名もなき民衆が社会を変える!」的なストーリーが先入観として入ってしまう
♨本書は蒙古襲来から応仁の乱までの200年間を戦争の時代として考えるが、武士にとっては必ずしも戦争は「成り上がり」のチャンスではなく、「災難」でもあった。サバイバルとしての南北朝内乱、そしてその後の社会の変化、いかにして足利政権の平和が失われたかも考える。

第1章:蒙古襲来と鎌倉武士

戦争を知らない鎌倉武士

★1980年代以降、鎌倉武士を「階級闘争の主体」とするマルクス主義から変革が起きた。ざっくり言えば、鎌倉武士の暴力性を告発するものが増えた。「武士=人殺し」説も。

★承久の乱以後、平和が訪れるが唯一の例外は宝治合戦(1247)。それ以外ほとんど戦争は起きず、1274年の元寇まで平和ボケ状態であった。

北条時頼vs三浦泰村。「吾妻鏡」によれば、6時間で死亡者500人だったとのこと。さらに、そのほとんどは自害。

蒙古襲来は避けられた戦争?

1268年、蒙古より高麗経由で通交を求める使者が来る。この内容については威嚇説、その反対説などあるが、蒙古から臣従を求めることであったことは確かであろう。

★ 鎌倉幕府はこれを朝廷に報告するが、朝廷が出した結論は「先送り」。幕府は西国諸国に警戒態勢を厳命。幕府は外交を朝廷に任せ、専門分野である軍事で対策を進めた。

鎌倉幕府の平和ボケ

★その翌年、モンゴルから「臣従を誓わなければ兵を出す」と通達。朝廷はモンゴルの侵攻を恐れているのに対し、鎌倉武士は武力でやろうとやる気満々。

※しかし、モンゴルへの侵攻は準備しておらず、やはり平和ボケか。

一騎打ちは本当にあったか

★1274年ついに開戦。「我こそは~」と名乗ったというのは神官の書であり、彼らにとっては武士が活躍したとあっては都合が悪かった。

鎌倉武士の装備

★彼らの装備がモンゴル軍との戦いで機能したかは疑問。

武士団の構成

日本軍の弱点

★小武士団が多数あり、全軍を有機的に動かすことは難しかった。

★「軍功を証明してくれる人を待ってから合戦しましょう」と竹崎季長の家来が言うが、「とにかく一番に斬りこむのだ、理屈はいいからウマを走らせろ」と。(ただし5騎!)

※騎兵戦はまずウマの腹を討ち、ウマが暴れて落馬して起き上がったところを狙う。

竹崎季長が有名だが、やはり大部隊を率いる有力御家人の方が役に立っている。

★こういう弱点がありつつも善戦したのは評価に値する。

モンゴル軍優勢と言う虚構

★モンゴル軍は博多を占領できなかったために博多湾の船団に戻る。

神風は吹いたか

神風がモンゴル軍の敗因ととらえる研究者は今ではいない

モンゴル軍撤退の真因

★現在有力となっている説は文永の役は日本軍の実力を瀬踏みするための威力偵察、という説。つまり戦闘を伴う偵察。しかし、その後の弘安の役が7年後と言うのはあまりに間の抜けた話であり、おかしい。

★他は威嚇説。

ちなみに当時の日本は高麗内部の三別抄から同盟の依頼が来ても、そういう戦略を持ち合わせず

★素直に解釈すれば、「日本側の抵抗が予想以上に強力だった」こと

※日中戦争にしても、短期決戦を想定してそうならなかった例は多い。

戦後日本の平和主義

★鎌倉武士に愛国心があったわけではない。彼らを見習い尖閣でも一戦を交えよと言いたいわけでもない。いずれにしても鎌倉武士がモンゴル軍を追い払ったのは確かだ。

遺言状を書いて出陣

幕府権力の変質

★御恩と奉公という関係が一般的に知られているが、その土地は勝手に売られていたりして役に立たない御家人もいた。(無足の御家人)

★しかし、元寇に際して幕府は御家人以外に荘官にも指令を出した。荘官というのは弱いものではなく、いわば「武士」。鎌倉武士というと鎌倉幕府の御家人というイメージがあるが、御家人ではない武士もいる。彼らは本来、将軍との主従関係はなく命令に従う義理はない。

蒙古襲来によって幕府は全国の武士をもれなく掌握することができた。しかし、滅亡への序章ははじまっていた

戦時体制としての鎮西御家人

★文永の役ののち、有名な【異国警護番役】開始。弘安の役ののちも3度目の襲来に備えて行われた。

★惣領を介さずに庶子が直接指揮下に。これは庶子にとってチャンス。惣領の下では御家人になれないが。

★万一に際しての一族の結束は強まる動きに。

鎌倉後期は戦争の時代か

単純化して説明すると、元寇以降は物騒になっており、南北朝内乱もその延長と言う説

★戦時を意識したのは実際に駆り出された九州の武士だけ。同時期、モンゴル帝国はサハリン侵攻をしており、蝦夷で動乱が相次いでいる。この「北からの蒙古襲来」は蝦夷を直轄支配していた北条得宗に衝撃を与えた。モンゴル帝国の出現によって人類ははじめて「世界史」を手にしたと言われるが、ここに「日本史」を組み込むという構想が最近なされているが、これは魅力的。

蒙古襲来が九州に限定的であったのに対して、やはり南北朝時代からが本格的な戦争の時代なのである。

short summary

元寇を追い払った原因として「神風」を支持している学者は皆無であろう。戦後日本の平和主義思想により歪曲された面はあるが、単純に考えて、「鎌倉武士がモンゴル軍を撃退した」と考えるのに矛盾はない。
同時期、モンゴル軍はサハリンも攻撃しており、それに呼応して蝦夷では動乱も起きており、「北からの蒙古襲来」も幕府にとっては脅威であった。
蒙古襲来で幕府は全国の御家人を命令系統に置くことができたが、同時にこれは滅亡への序章でもあった。

もっとも、同時期、モンゴル軍はサハリンも攻撃しており、それに呼応して蝦夷では動乱も起きており、「北からの蒙古襲来」も幕府にとっては脅威であった。
蒙古襲来で幕府は全国の御家人を命令系統に置くことができたが、同時にこれは滅亡への序章でもあった。

第2章:「悪党」の時代

楠木正成は悪党?

★戦後歴史学において、「悪党」楠木正成の評判は決して悪いものではなかった。

峯相記(みねあいき)に描かれた虚像

★1299年以降、悪党の動きが増えたという。1319年には山陽道南海道で取締。1324年以降の悪党は以前と変わり、「良いウマに乗り、100騎くらいの行列を作り、金銀をちりばめた鎧を着て、人目をはばからずに掠奪、合戦を繰り返す、守護や武士も恐れる存在」に。しかし、正規の武士団も悪党と呼ばれていることなどから峯相記はどこまで正しいかわからない

訴訟用語としての悪党

結局、悪党とは他者からのイメージ。のち、悪党とは朝廷に対する反逆者の意味に

※ちなみに荘園の支配はいつの時代も動揺しているようなイメージを受けるが、これは何かあった時にしか史料が残らないからである。

宗教用語としての悪党

悪党を告発する多くが寺社というのも見逃せない

★海津一朗の説では、モンゴル侵攻におびえる民衆が神仏にすがるようになり、その抵抗勢力に悪党の烙印を押して、徹底的に弾圧したという説。ただ、これは地域温度差が大きく、言いきれないところもある。

悪党論の限界

12世紀の鳥羽院政期、後白河院政期に増えた中世荘園であるが、この時期に悪党と言う言葉も急増。ただ、この時期は荘園外のものに言われているのに対し、13世紀末は本官に対して年貢を払うべき荘園内部のものが悪党となっているケースに着目。よって、鎌倉後期~南北朝期を「悪党の時代」と位置付けるのは疑問。

有徳人(うとくにん)=ヒルズ族の登場

★鎌倉末期から南北朝期の徒然草で有徳人(金持ち)は既に登場。この時代を象徴するのは「悪党」ではなく彼ら「有徳人」あろう

有徳人はなぜ僧侶なのか

貨幣経済の進展により有徳人が出現。貨幣の普及、【代銭納】は商品が地方にも出回ることになり、物流を増大。当時、中国(南宋)でだぶついた銅銭が日本に普及したことも一因。有徳人は各地各時期の相場を見極め、安く買って高く売ることが出来た。

★また、有徳人には僧侶が多く、彼らは金融業に練達した人が多かった。延暦寺、日吉社は典型。また、読み書き、計算能力も高く、各地の人脈もあった。このように、地方寺院は人、財物、情報が集まる地域社会のセンターであった。

坊主の姿をした武士たち

★金持ちは標的になりやすく、自前の武力を持った例、武士出身の僧侶もいる。

一円化というサバイバル

★中世荘園は本家(王家、摂関家)⇒領家(貴族、寺社)⇒預所⇒下司(御家人が就任している場合は地頭)。ただ、1つの荘園に無数の権利が設定されており、権利争いも生じた。鎌倉後期にようやく権利関係を整理しようと言う動きが見られた。本家と領家のトラブルなども。

★また、鎌倉後期になると武士の家の相続方法は嫡子が親の所領をほとんど相続し、庶子は新惣領に従属するようになった。開発が限界に達したのも鎌倉後期であった。しょうがないので、庶子は寺に入る例もあった(武家出身の僧侶)。

「都鄙(とひ)名誉の悪党」寺田法念

★悪党はどこへ行ったのか?という問題は問の立て方が間違っているのではないかと思う。京都でも有名な寺田法念は西国武士出身であり、東国武士よりも一段低く見られ、地頭となることはなかった。しかし、土地を巡って利権争いも生じている。

悪党は強かった?

★法念の侵略に対して寺側が取り締まりを訴え、最終的には寺田氏は降伏することになるが、この軍勢とは所詮20人程度である。まだこの時期は大規模な武力集団は存在していない。

なぜ鎌倉幕府は亡びたのか?

★難問。最新の回答は「わからない」である。研究が進めば進むほど仮説が成り立たない。惣領が幕府側につき、庶子が討幕側についたという事実はない。北条の専制支配に対する御家人の反発説も、非御家人の反発説も「階級闘争史観」から抜け出せていない。

★1つの流れとして1331年、後醍醐天皇の討幕計画が漏れ、笠置山に立て籠もり、楠木正成が呼応して挙兵し、千早城を拠点に1年半ゲリラ戦を行ったことで、北条氏の不敗神話が崩れ、不満が一気に出たのではないかと推測。

short summary

「悪党」とはあくまでも「相手から見て」。そもそも、土地の権利が重なっていたのが問題である。「悪党」の人数もせいぜい20人程度。
鎌倉後期~南北朝は「悪党」の時代というより、「有徳人」の時代と呼ぶ方がふさわしい。「有徳人」は物流、情報が集まる「寺社」であることが多い。武家出身の庶子も多く、寺社は武装化していた。
鎌倉幕府滅亡の原因は実は「わかっていない」が、1331年の後醍醐天皇の討幕計画と、楠木正成の奮戦が一因であった可能性はあるだろう。

 

第3章:南北朝内乱という新しい論争

後醍醐天皇と足利尊氏

★1333年6月、鎌倉幕府の滅亡を受けて後醍醐天皇は京都に帰還、復位宣言。(※大覚寺統と持明院統の争いがそもそもあり)翌年、年号も改め、「建武の新政」を開始。

建武の新政が失敗した最新学説は最有力武士である足利尊氏を政権中枢に取り込むことが出来なかったからである。

1335年7月、北条高時の遺児時行が蜂起し(【中先代の乱】)、鎌倉攻略した際にも討伐および征夷大将軍任命を願い出るも、彼を征夷大将軍にしなかった。結局、朝廷の許可を得ずに討伐し、その後も帰郷命令に応じず、独自の判断で関東を統治。最終的に朝廷と決裂。

★後醍醐天皇=宋学=独裁政治説もあるが、宋学を学べば徳をもち立派になろうとするので、成り立たない。

圧勝が後醍醐天皇を過信させた

★後醍醐天皇が倒幕を決意した理由ははっきりしていて、これは息子を天皇にしたかったから(※1221年の承久の乱以降、朝廷は幕府に逆らえなかった)。

★よって、息子が天皇になれれば倒幕できなくても良かった。ただ、新田義貞が恐れていた鎌倉方をあまりにあっけなく倒したので、過信したのでは。

足利尊氏は躁鬱病か?

★太平記によれば、足利直義は北条時行軍に追われて鎌倉を脱出するどさくさに紛れて護良親王(※征夷大将軍となっていた)を殺害、さらに尊氏・直義が新田貞義を討とうとしていることが発覚したために足利兄弟討伐が決定。これに対して、尊氏は「出家する」と言い出したことなどから「躁鬱説」があるが、それは怪しい。

★結局、東海道で連戦連敗の弟・直義を助けに決起する決意をする。この、年1個差の兄弟は仲が良かった。1335年の中先代の乱で朝廷の許可を得ずに北条討伐に行ったのも、直義を助けるためという気持ちがあったのではないかとも推測される。

東奔西走する兄・尊氏

★尊氏の参戦により形勢逆転(建武2年12月)。後醍醐天皇・新田義貞は近江まで逃げるが、ここで陸奥より北畠顕家が参戦。尊氏は敗北し、丹波篠村に落ち延びる。(建武3年2月。ここには足利の荘園があった。)その後も新田・北畠連合軍の前に敗戦を重ね、「室津会議」を行う。これにより諸将を東海道と四国に配置して追撃に備えつつ九州に落ち延びることに(建武3年3月)。

★この間、ひそかに光厳上皇から院宣を得て、<官軍vs朝敵>から<後醍醐vs光厳>に。九州では少弐家の力を得て、多々良浜の戦いで菊池軍の大軍を奇跡的に撃破(建武3年3月)。

★建武3年5月に、再び京都に向けて東進し、摂津湊川の戦で新田・楠木軍を撃破(※桜井の別れもこの時)。楠木正成討死。後醍醐天皇は比叡山に退去。6月に上洛。8月に光厳上皇弟が光明天皇として践祚。10月に兵糧攻めの効果が出て後醍醐天皇より和議申し入れ。

★後醍醐天皇は帝位を息子に譲り、新田とともに越前へ、11月に後醍醐天皇が三種の神器(実はニセモノ)を引き渡し、12月に吉野へ逃げる。ニセモノの三種の神器を作る余裕があったかどうかは別として、以後、南北朝時代へ。尊氏にしてみれば、後醍醐の息子を皇太子にしてまで後醍醐を迎え入れていたのに、まさか逃げられるとは思ってもみていなかったであろう。油断があった。

♨吉野に逃げられたのは「想定内」というのがこれまでは言われていたが、真相はいかに。

政道を任された弟・直義

★1338年に新田義貞、北畠顕家とも戦死。足利尊氏が征夷大将軍に任命される。翌年、後醍醐天皇も吉野で没する。

(※【ちょっとブレイクして年齢構成を把握する】後醍醐天皇1288年~1339年、楠木正成1294年頃~1336年、新田義貞1300年頃~1338年、北条高時1304年~1333年、足利尊氏1305年~1358年、北畠顕家1318年~1338年。というわけで、後醍醐天皇が最年長で、正成は6歳、新田は12歳、尊氏は17歳年下。北畠顕家は30歳年下。

★1348年、高師直が吉野攻略。南朝はさらに南の賀名生(あのう)に逃げ込む。師直は楠木正成征伐など、武功でのし上がった。

★1336年、尊氏は直義に任せて仏道修行に励むつもりだったが、後醍醐天皇の再起でかなわず。

幕府の内紛で60年戦争に

足利直義と高師直のそりが合わない。直義は伝統や秩序を重視、師直は進取の気性に富み、現実主義・実力主義。おおまかに東国・九州が直義、畿内が師直派であるが、実際はもっと入り乱れている。師直はバサラのイメージがあるが、実際は官僚としても優秀であり、これこそが脅威であったのであろう。

♨師直は進取路線でいかなくては、部下の信頼を得ることができなかった、という見方もできる。

1349年、直義の直訴で師直が執事職から降ろされ、同年、直義を討つべく高師直挙兵。直義は尊氏の邸宅に逃げ込む。師直は尊氏引退、執事復帰などを交渉。直義側近の上杉重能、畠山直宗は流罪の予定だったが、途中で斬首。直義も出家。

1350年、直義の息子の直冬が九州で勢力を伸ばし、尊氏が西に向かう隙に直義が京都から脱出、挙兵し、今度は尊氏・師直を圧倒。

1351年、今度は師直兄弟が出家。しかし、帰路で上杉重能養子の能憲に殺される。

★同年、近江の佐々木導誉、播磨の赤松則祐が南朝に降伏したとの情報で尊氏が近江、義詮が播磨に行くが、これは京都を離れて味方を集める口実であり、東西から直義を挟撃。その後、逃げる直義は連戦連敗。翌年、降伏のち没する。これで観応の擾乱は終結

だが、各地の直義党は健在で60年戦争は幕を開けたばかりであった

守護と大将

★室津会議はあくまでも暫定的なものであったに過ぎない。足利一門が配置されているのも、裏切らない確信があるから当然。大将にしろ、守護にしろ、軍事指揮権的な権限は持っていない。Aという指揮官の元で戦った武士が次の合戦ではBの元で戦うのは珍しいことではない。

★ちなみに建武の新政で護良親王が出した恩賞を後醍醐がパーにしたという前例。

転戦する武士たち

★足利尊氏にしてもそうだが、彼のもとで戦った武将は連戦につぐ連戦で関東から九州まで行っていたり、九州から関東にまで行っていたりする。南北朝内乱の苛酷さに比べれば、鎌倉後期の悪党事件など所詮は小競り合い。ただの隣同士の領地争い。

掠奪と言う軍事作戦

★鎌倉幕府時代の御家人は兵糧米を自給自足していたが、南北朝時代ではそれでは餓死してしまう。1870年~1871年の普仏戦争でプロイセンは綿密な補給計画を立てていたが結局は頓挫し現地調達していたように、現地調達がもっとも理に適った方法ではある。平和主義思想ではこのことはあまり尊重されないが事実である。

★尊氏がしばし兵庫を拠点としたのは港町の倉庫による兵站確保の目的もある。

★近代軍事学の創始者クラウゼヴィッツによれば、人口が密な地域を狙うべき。

兵粮料所の設定

★行政組織を介した掠奪の体制化。武士が掠奪に赴くよりも荘園側に出させる方がスマート。

半済令(はんぜいれい)とは何か?

★一国の軍事指揮官である守護は戦争に備えてあらかじめ食糧を蓄積しておく必要があった。しかし、兵粮料所を個別に設定していっても、その多くは配下の武士に預けてしまうので、守護の手元にさほど集まらない。そこで【半済令】が出された。これは守護が国内のすべての荘園から一律に年貢米の半分を兵粮米として徴収できる仕組みである。

★これは長らく議論されたが、むしろ守護が半分取れると言うよりは、「荘園領主が半分もとれる」という解釈が適切か。守護による強引な兵粮米徴収もあったわけだからだ。

★ただ、研究においてはあまりに重視され過ぎではないか。実際は守られず、しばしば武士が荘園を占拠した。結局は、「お前ら、ほどほどにしておけよ」という意味であり、南北朝期の戦争を論じるうえで、条文を細かく分析するのは無意味か。

陣夫と野伏

★守護が荘園に要求するのは兵粮米だけではなく、時に人員も。陣夫は物資を運んだりの雑役、戦闘員としては野伏。所詮は百姓であり、ゲリラ戦法は発想が飛躍。ベトナム戦争にしてもそうだが、民衆の闘争の手段としてゲリラを持ち上げるのは辞めるべき(北軍正規軍がソ連の武器を手に南軍に勝ったのである)。

★野伏の具体的な仕事は落ち武者狩りと、通路遮断。

戦術革命はあったか

戦後歴史学は民衆の台頭が大好きで下剋上的側面を過大視する傾向があるが、この時代のそれは修正されつつある。

山城の出現、飛距離の長い弓の登場は刮目。歩兵が弓を担うようになり騎兵は打物戦に集中できるように。

★南北朝内乱の特徴は、遠征、長期戦、大規模戦の増加で食糧の確保が最優先課題に浮上した点が最大の特色である。

short summary

太平記の時代、観応の擾乱を経ての南北朝内乱の特徴は「遠征、長期戦、大規模戦の増加」であり、食糧の確保が最優先課題となった。鎌倉後期の「悪党」問題とはスケールが異なる。

※【略年表】(1331~1351)
1331年の後醍醐天皇の決起を機に、楠木正成蜂起
⇒もとは鎌倉御家人であった足利尊氏も蜂起
⇒新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼす
⇒1333年、建武の新政
⇒1335年、中先代の乱を機に後醍醐vs足利
⇒北畠顕家参戦で形勢逆転
⇒九州で多々良ヶ浜の戦い
⇒兵を立て直して、院宣を得て<光厳vs後醍醐>にして
⇒湊川の戦いで足利勝利
⇒三種の神器を手放す
⇒実はニセモノと言い張る
⇒1336年から南北朝時代
⇒1338年、足利尊氏征夷大将軍に。しかし、実弟の足利直義と高師直の対立
⇒1349年~51年、観応の擾乱
⇒これは南北朝60年戦争の序章に過ぎず。

 

第4章:武士たちの南北朝サバイバル

戦いたくない武士たち

★階級闘争史観では武士たちが成り上がりの好機ととらえて戦争に勇んだ姿が強調されているが、最新の史料からは自分が死んだあとの家族の心配、経費捻出の問題なども記されており、決して戦意が高かったわけではないことがわかった。(高幡不動胎内文書)

続出する戦死者

★少弐(武藤)氏の系図を調べると1/3が南北朝争乱で戦死している。戦争で青年、壮年が動員されるので、老人、女性が残り、残された家が没落することもあった。そのため恩賞制度もあったが、これもアバウトなもので、実際はただの紙切れに過ぎなかったということも多々あった。指揮官たちは戦争に来なかったら所領を没収するぞ、という脅しがあったことも日常茶飯事。

死地に赴く気構え

★戦死のリスクに際して、相続を決めておいてから出陣することは多かった。

戦死以外のリスク

★当時の医療技術を考えれば戦傷がその後の生活においても致命的となった可能性は高い。力こそ正義の時代である。

★また、今でいう土地権利書が紛失する問題も多々あり。寺に預けると言うのが習わしであったが、寺すら襲われる危険があった。

★「あいつは南朝方だ!」などレッテルを貼って、横領行為を行うこともしばしば。ちょっとしたことで、所領がなくなってしまうという危機感が常にあった。

武士たちの危機管理型相続

★戦士リスクに備えて実子がいても養子をとったり、息子と孫とで二分割することでその後のリスクを抑えたり、兄弟が留守を預かることにしたり、と災難から身を守るのに必死だった。

一族団結の必要性

★惣領が北朝なら庶子は南朝になんてことも珍しくない。歴史的に見ても兄弟が争う事なんて珍しくもなんともない。どっちかが生き残るようになんていう生易しいものでもない。

それでも団結は難しい

★薩摩の入来院氏らは、戦死者が出た時の相続者が男子であれば全部相続できるが、女子なら半分という制度もあった。

★実力のある庶子が上部階級と結びつくことも少なくない。

★僧形の武士も活躍。

思いがけず長期化した内乱

★直義が最初に南朝に話を持ちかける。南朝は「降参」を許す、とするが、結局条件はまとまらず。しかし、一度は尊氏に勝った。

★翌年に直義が京都を脱すると、今度は尊氏が直義討伐に専念するため南朝へ。尊氏は南朝を正統と認める全面降伏をとる(正平一統)。ただし、南朝のだまし討ちで翌年には破れる。

天下三分はいい迷惑

観応の擾乱は平和を期待した武士にとっては迷惑。尊氏、直義、南朝が離合集散を繰り返し、政治が混迷を深めた結果、武士による一揆ブームが到来した。

遠征の忌避と一円化の進行

★遠征している間に領地を取られてしまうというケースは続出。遠征したとして、特に恩賞が大きいわけではない。これにより幕府の出陣命令に素直に従うことはデメリットの方が大きいと判断されるようになって、地域密着型の武士が増加。

幕府の軍役賦課は武士たちの一円化の努力を妨害するものであり、南北朝の不毛な戦争方から降りて、一円化に専念した武士だけが生き残ることに成功したのである

「危機管理システム」としての一揆

★武士が自分の所領を守る手段として重要視したのが近隣武士との協力関係の構築である。そして、これは単なる近所付き合いを越えて、集団的自衛権であり、これを「契約」まで進めて誕生したのが軍事同盟、国人一揆である。これは、当主の戦死に際して結ばれたことが多かった鎌倉時代の在地領主連合とは異なる

戦時立法だった一揆契状

一揆契約は非常時への対応である。彼らが最も恐れていたのは家での内部対立が戦争と結びつくことで劇化し、家が滅亡してしまうことであった。そして、1つの家の規定が、多数の家を拘束するものに拡大していった。

★南北朝の武士たちは上から有事法制を押しつけられるまでもなく、自ら生き残るために知恵をしぼっていったのである。

short summary

南北朝の争乱は武士にとっては迷惑であった。武士の仕事の一つとして土地の管理があったが、出征命令はこれを妨げるものであり、中には遠征中に領地を略奪されてしまったものもいた。それを防ぐために近隣武士と良好な関係を築くことが重要となり、それは明文化された契約となり、国人一揆につながった。この国人一揆が戦時立法であることも見逃せない。南北朝の不毛な戦争方から降りて、一円化に専念した武士だけが生き残ることに成功した。

 

第5章:指揮官たちの人心掌握術

催促か勧誘か

★学者言葉で「軍勢督促状」と呼ばれるものがあるが、実際の文面を見ると「勧誘」に近い。

戦うお公家さん

★多くの南朝方の貴族が指揮官として参戦していた。例として四条隆資。討幕計画の最初から関与しており、息子たちも皆、戦場に。公家だからと言って軟弱なイメージではない。

★より知名度の高い「戦う貴族」は北畠顕家。関東を任されていた斯波家長には三戦三勝した。北条氏の残党が多かったため、陸奥は必然的に強い軍事力が必要であり、陸奥将軍府はこのような背景があって強力な軍となっていた

北畠顕家の地方分権論

★顕家は畿内で尊氏軍を撃破し、鎮守大将軍に任命された。しかし、陸奥にも尊氏派がいたため次第に戦況は不利に。そんな中、後醍醐天皇より再び上洛命令が。

★1337年に鎌倉攻略(斯波家長戦死)したかと思うと、年が明けてからは猛スピードで東海道を進撃し、青野ヶ原(ほぼ関ヶ原)で土岐頼遠らを撃破。しかし、歴戦の消耗から、高師直との衝突は避け南下し、伊勢路からの上洛を目指すも鈴鹿の守りは固く、やむなく伊勢から伊賀を経て吉野へ。その後、各地で幕府軍を戦うが、最終的に堺で戦死。

戦死の1週間前に後醍醐天皇に政策提言書を執筆し諫言している。内容は陸奥に行政機関を置いたように、九州、関東、山陽道、北陸道にも軍政官を置いて、その地域をおさめさせるべきという『地方分権論』であった。

九州に行政機関を置かなかったために、九州の武士が尊氏方についた、とも訴え

鎌倉時代、陸奥は北条氏の植民地であったが、顕家らが下向し、【陸奥将軍府】を開設。これにより陸奥の武士たちの自治が認められたからこそ、顕家の下に武士が集まった

★吉野の貴族・僧侶が何の手柄もないのに後醍醐に取り入って莫大な恩賞をもらう一方、陸奥の武士が命がけで戦ったにも関わらず恩賞が少ないことの悔しさも綴らす。

北畠親房は上から目線か

★北畠顕家の父、親房は後醍醐天皇の側近と理解されているかも知れないが、討幕計画には参加しておらず、建武の新政にも批判的であった。顕家と共に陸奥に下り、顕家をサポートしながら陸奥経営を補佐した。足利尊氏を西国に追いやった後、京都に残り、後醍醐を補佐。

★北畠顕家、新田義貞の相次ぐ戦死で、再建のために海路、陸奥を目指すが暴風雨に遭い、常陸に漂着。以後、幕府と戦い続けたが最終的に高師冬軍に敗れて吉野へ。

★「武士はこうあるべき」というお説教も多いが、「いくら敵を勧誘したいからと言って味方より優遇するのはおかしい」と、言うなど筋が通っている。(九州探題の今川了俊は島津氏を味方につけるためにこれを行い、今まで従ってきた武士から反感を受ける。)

親房の「失敗の本質」

★所領が少ない南朝にとって恩賞に官位を預けるのは理に適っていた。さらに陸奥将軍府復活を目指したが、後醍醐天皇がなくなり、後村上天皇が後を継ぐと親房に全権を委任したはずの東国奥羽に口を出すようになった。親房をとばして吉野と直接交渉して恩賞をもらえるのであれば、親房の命令に従うはずはなく、求心力が低下。大袈裟に言えば、親房は後ろから撃たれた。南朝における親房の権力が強かったのも一因だが、後方不注意か。

今川了俊は悲劇の名将か

★親房は5年の常陸滞在の間、結城親朝に100通もの出陣要請の書簡を送っている(♨この様子は「マンガ日本の歴史」でも面白く描かれる)。

★その40年後、九州で怒涛の出陣要請を行ったのは義満から九州探題に任命された今川了俊。この時期、南朝方は九州に征西将軍府を設立し、後醍醐皇子の懐良親王が全権。唯一抵抗していた。今川了俊は征西将軍府を滅ぼすことが任務。

★今川了俊は武功があったにも関わらず、義満に左遷されたとして悲劇の名将扱いであるが、最近の研究では北九州では成功したが、南九州では失敗した、という考えが出されている。

★1375年、今川了俊は幕府方に帰順した少弐冬資を肥後水島(熊本県菊池市)の陣に招き謀殺。これにより了俊に依頼されて少弐を勧誘した島津氏久は面目丸つぶれとなり、激怒して即座に帰国、南朝方に転じる。了俊は周辺武士に土地の恩賞を約束して一揆を組織させたが、攻略は難航。そこへ1377年、島津氏が本領安堵を条件に降伏。菊池氏の討伐に全力を向けられるようになったが一揆軍は怒り心頭。

★しかし、島津氏の降参は偽装であり、時間稼ぎ。了俊方に寝返った武将とも内応。そして1379年、都城合戦で島津氏久大勝。その後、軍勢を立て直し、1381年に都城包囲、島津降参するが、これもまた偽装。一揆は崩壊。幕府は了俊では南九州平定は無理と判断して解任したのであって、決して勢威を恐れたからではない。

♨それにしても、この時期から既に島津氏は強豪だったとは!何たる家系。

足を引っ張られた了俊

★しかし、幕府は幕府で了俊の頭越しに九州政策を行うこともあり、島津氏も幕府と直接交渉するなど。幕府にとって南九州が忠実であれば良いので、了俊ではなく島津氏でも良いわけだ。特に島津氏も幕府に直接敵対心があるわけではなく、また幕府も島津氏懐柔の必要性は感じていたのであった。

大将はつらいよ

大将たちはなかなか動かない武士に対してあの手この手で働きかけた。(※これって、今の世の中もそうか…?)「参戦しないと敵とみなす、京都に報告する」などの脅しも。現地に基盤を持たない大将の唯一の強みは中央とのコネであった。また、勝手に帰るものもいた。所領が一番の恩賞であるが、大将方も決して懐が温かいわけではなかった

約束手形をばらまく

この時代には誰の所領なのかも確認せずに恩賞地として与えてしまった結果、1つの所領に2人の武士が下分を持つ事態が発生することが少なくなかった。土地は有限なので降参してくるものが増えると約束を履行できなくなることも。結果的にだますことになってしまう。

大義名分を説く

恩賞としての所領に限界がある以上、大義名分を説くのも大将の仕事である。北畠親房に限ったことではない。恩賞の約束で武士を釣るのは困難であり、武士の功利的な行動原理を熟知していたがために、大義名分を出した。

大将同士の交渉

★飛び地に所領を持っている武士が、「住んでいないから」という理由で播磨守護の赤松円心に取り上げられて没収されて現地誘導されてしまった例もある。

★また、多数の指揮官が各地を転戦する南北朝期において味方の大将同士の意思疎通すら難しく、連携不足が原因で味方からも攻撃されてしまうことがあった(!)。

★配下の武士の面倒見の良さが高一族の戦上手であった秘訣かも知れない。

軍勢の「勧進」

★常陸における北畠親房の奮戦で一進一退であったが、1341年、南朝の重臣である近衛経忠が北朝に寝返ったが冷遇されたために東国の藤原姓武士に呼びかけて一揆を結成し、藤原秀郷末裔の小山氏を坂東管領にしようという動きがあった。しかし、これは親房を否定する運動であり、南朝の足並みは乱れ、小田氏の離反などあり、弱体化。

★勧進=元々は人に仏教を勧めることであるが、中世においては寺社の修復などに際して人々から喜捨を求めるという意味もあった。さらにそれが転じて物乞い。        

旅する僧侶

★時宗、禅律僧は戦闘中にも使者として自由に往来することができたが、彼らは各地を回って武士たちに出陣を要請する「戦争」の使者でもあった。日野俊基はわざと失態を犯し、謹慎して山伏に返送して諸国を視察し挙兵に備えた。勧進聖という格好は絶好の隠れ蓑だったのだ。親房の書状にある「勧進」にはこの意味も含まれている。

「勧進」も軍功

★戦争の勝敗を決するのは主力決戦や殲滅戦ではなく、相手方の武士を味方につける調略の積み重ねが一般的である。情報提供や勧進も軍功である。

大将たちの「大本営発表」

★勝ち馬に乗りたい人は多いので、「大本営発表」は多い。親房の再三の要請に親朝が腰をあげなかったのはそれを見抜いていたからか。

short summary

遠征は明らかにリスクである。大将たちは武士を動かすのにあの手この手を使った。恩賞は所領が一番うれしいが、決して大将たちも懐が温かいわけではない。そんな中、「大義名分」を利用するという手法も。
陸奥将軍府の北畠親子、南九州平定に向かった今川了俊らは、それぞれ朝廷、幕府の「頭越しの指示」に振り回されながらも健闘。
北畠顕家は死の前に地方分権論を諫言。今川了俊は島津を敵にしたことで南九州征伐には失敗。

長くなったので【後編へ】