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☞【足利家はしぶとい?】『戦国期足利将軍研究の最前線』(山田康弘編、2020年)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、ひきつづき『戦国期足利将軍研究の最前線』。

第2部:「戦国期足利将軍たちの“生き残り戦略”」についてです。

細川氏が権力を持っていたことには変わりないと思うのですが、

だからといって将軍の座を乗っ取ろう、とはならないのが実は重要な点かな、と思います。

目次

§3.裁判制度からみた足利将軍の実像(山田康弘)

(はじめに)

「足利将軍家=細川氏の傀儡説」には再検討の余地

(戦国期には、どのような「裁判所」があったのか)

★当時、権力者たちがそれぞれ勝手に裁判をしていた。これには朝廷も入る。

朝廷は「儀式ばかり」というイメージは事実に反す。実際は神官の人事や領地争いをめぐって独自に“裁判”をしていた。

★百姓たちも「村の裁判」を行っていた。

原告はどこに訴訟を持ち込んでも良いという点で現代と異なる。

(足利将軍家における裁判の実態)

★戦国期においても足利将軍家には多くの訴訟が持ち込まれていた。

★政所沙汰を扱う「政所方」は代々、伊勢氏がトップ。政所代が蜷川氏。伊勢氏による世襲は200年以上続いていた。

★「御前沙汰」に比べて京都内外の経済関係を扱う「政所沙汰」は軽微な案件が多かった。しかし、幕府の全国支配力が低下したことで、相対的に政所の地位が上昇した。そのため伊勢氏は将軍やその側近たちにとって厄介な人物に。

★伊勢貞孝(~1562)はしばしば義輝に叛いたことから粛清された。以後、義輝近臣の摂津晴門が政所トップとなる。

★裁判に伴う手数料収入はバカにならなかったため、将軍家としては裁判を迅速に行いたいという一方で、裁判の正確性も重視した。よって、奉行人(裁判のプロたち)たちによる「意見制度」が導入された。

★しかし、すべてこれが通ったわけではない。将軍や内談衆(将軍側近)が覆すこともあった。

(おわりに)

★「将軍=細川氏の傀儡」という定説がある。それなら裁判も細川氏が行っていたであろう。そうではないことから将軍は細川氏の傀儡ではなかった、と言える。

§4.足利将軍の「軍事・警察力」は、どの程度あったのか?(木下昌規)

(室町期、将軍直属軍はどのくらいの兵力があったのか)

★応仁の乱以前、「奉公衆」と呼ばれる直臣兵力は3,000~5,000。少なく感じるが、有事の際は各地の大名も駆けつけることになっていたため、大きな問題にならなかった。

(戦国期の将軍直属軍の実像)

★応仁の乱後も維持。従来の研究で明応の政変以後消滅したと言われていたが、そうでもない。

義輝、義昭の時代も2,000~3,000人規模の動員兵力があったが、これでは数万規模の軍事動員が可能となった戦国大名には太刀打ちできない

(戦国期、京都の治安維持の実態)

★室町時代、京都の治安維持を担ったのは将軍家の「侍所」。侍所のトップが所司であり、2番目が所司代である。

★この職は赤松、一色、京極、山名ら有力大名が務めていた。

★戦国期にはその下で働いていた事務官僚たちが中心となり、200-300人で治安維持を行っていた。彼らは祇園祭の山鉾の順番なども決定していた。

★彼らを指揮していたのは細川氏と思われていた。しかし、最新研究では将軍家であることがわかった。

(おわりに)

★戦国以前は奉公衆が3000-5000人規模であっても、いざとなったら大名が助けることになっていたので困らなかった。しかし、戦国期になるとその体制が崩れたため将軍はピンチに陥った。

★1573年、信長が義昭を京都から追放した際、侍所の役人たちも行動をともにした。以後、京都の治安は信長によって担われていく。

§5.足利将軍から授与された「栄典」は、役に立ったのか?(木下聡)

(はじめにーそもそも「栄典」とは何か)

★室町時代の栄典は現代とは異なり、受け手から求められて出されていた。

(4つに分けられる幕府の栄典)

★①官位関連、②編諱(へんき)、③幕府内の家格・身分、④待遇。

三好長慶、松永久秀、織田信長、大友宗麟、一色義龍らは、元々は足利一門ではない。しかし、家紋の「桐紋」を授与されている。

これは足利一門の中でもさらに特別扱いをされる身分になることを意味する。

(幕府には栄典を与える基準があったのか)

★金策のため乱発したというわけではない。ある程度基準は存在。

(栄典を貰い受ける手間と費用は?)

★伊達稙宗の例をとると、現在のお金で5000万円以上。

(大名たちは、なぜ栄典を欲しがるのか)

★他の大名への対抗として。

(栄典に意味はあったのか?)

★強い軍事力を持たないのに200年以上も存続したという点で、それなりの意味があったのではないか?

§6.「大名間の争い」に積極的に介入した足利将軍(浅野友輔)

足利義輝

(足利将軍の「和睦命令」と毛利氏の反応)

★1559年、義輝は毛利に尼子との戦争を辞めるように告げる。これは尼子からの依頼。

★毛利は困惑したが、将軍の命令をあからさまに拒否すれば内外からの批判を受けると危惧。

★周辺大名を多く巻き込んでいたため、単純にはいかない。

(毛利氏が、将軍の和睦命令を拒否した意外な方法)

★和睦交渉開始。毛利は戦況有利であったため、強気の交渉に出る。

★結局再戦へ。石見、出雲へ侵攻。

★毛利は、再戦理由を尼子のせいにした。義輝からの使者には3億円程度渡して、その光景を見てもらった

(島津氏は、将軍の和睦命令にどう向き合ったのか)

★1560年、薩摩の島津氏と日向の伊東氏の紛争を解決しようとする。

★劣勢だったこともあり、島津貴久(1514~1571)はあっさりと和睦。係争地の日南市は将軍直轄領となる。

貴久は大友も含めた三者の和睦を求めた。大友、伊東とも将軍家との関係を深めたい時期であったため、応じたが、これにより彼らは行動を封じ込められた

★貴久の主張はもう1つ。薩摩、大隅、日向は鎌倉時代の前より島津のものであったことを将軍に認めてもらおうとした。伊東も同様の主張をしていたが、その宣伝戦略を封じ込めることとなった。

(どちらの説が正しいのか?)

★毛利の件も島津の件もほどなくして破られてしまったため、「無意味だった」説がある一方、「無意味とも言い切れないのでは?」という意見も。

♨個人的な意見としては、処罰能力がない時点で無意味。しかし、米国のように中東の紛争に首をつっこんでムチャクチャにするよりかは良かったのか?将軍家の力が弱っていることは当の義輝が理解していたことであろう。

♨逆に将軍家の立場であったらどういう打開策があったのだろうか?

§7.武家勢力との絶妙な距離感をたもつ天皇(神田裕理)

(公武相互補完関係の形成)

★室町幕府成立時より、足利家は北朝の保護者。武士の中で唯一の存在となる。

♨見逃しがちだが、これは重要な件だ。

★応仁の乱で荘園収入など激減。しかし、朝廷も無策だったわけではない。各地の戦国大名から援助を引き出している。

※このあたりが最新の研究結果。(2018年などの論文)

(裁判における補完と分掌)

★山崎油の公用をめぐる中原家と清原家の争いを正親町天皇が将軍の忖度を受けずに裁いている。

(危機を回避する朝廷の武家対策)

★改元は武家、朝廷両者の合意のもと行われた。三好長慶と将軍義輝の間で改元問題が生じたときは、どちらにも味方しないという姿勢をとることで京都の政情を守った。

★義栄と義昭、どちらが権力を握るかわからない時点では、やはりどちらか一方の協力を仰がず。どちらか一方と関係を結ぶようなことは避けた。

(おわりに)

★天皇は単なる伝統的権威でもなく、武家の傀儡でもない。

★しかし、巻き込まれやすいポジションにいたことは確か。

§8.足利将軍を側で支えた公家・武家出身の「女房」たち(奥野友美)

(女房たちに期待された役割とは?)

★将軍と外部の取次役を行うことも

(女房たちは、どのような生涯を送ったのかー佐子局の場合)

★直臣の娘。義晴より年上。政務決済にも深く関わる。義晴が成長すると尼となり退去するが、それでもしばしば意見を言うことも。本願寺との間を取り次いだ。

(女房たちの収入源は何だったのか)

★基本的には将軍直轄領からの収入であるが、意外な富裕もいた。