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☞【足利将軍15人言えますか?】『戦国期足利将軍研究の最前線』(山田康弘編、2020年)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、『戦国期足利将軍研究の最前線』です。

まず、この本が本屋で大量に「平積み」にされていることに驚きました。

なんせ、テーマがマニアックじゃないですか。

しかし、内容は実に満足しました。

「応仁の乱ブーム」の後は「応仁の乱『後』ブーム」が来るのではないかと期待もします。

(さすがに無理か…)

まずは義尚以降7人の将軍のプロフィールを見て行きましょう。

§0.知られざる7人の戦国足利将軍たち(山田康弘)

【9代:足利義尚(よしひさ)】

戦陣に散った「若き貴公子

★1465~1489.(在位1473~1489.)
★応仁の乱の最中に9歳で就任。
父の介入に悩まされる。25歳で死去
★父:足利義政
★側近:大館尚氏(1454~?)

応仁の乱で登場する義尚は立派に成長します。

しかし、父母の介入には悩まされるのですよね・・・

それを乗り越えるには武功をあげるしかない、とばかり将軍の意向に沿わない六角氏(近江国)を攻撃し、勝利しました。

この際、数万の兵が集まったといわれます。

応仁の乱で足利将軍の権力は地に落ちたような言われ方をされることが多いのですが、そうでもないのです。

残念ながら早世。

【10代:足利義稙(よしたね)】

逆境に耐えた「不屈の大将軍」

★1466~1523.(在1490~1493、1508~1521)
★父:足利義視(1439~1491)、母:日野良子(富子の妹)
★義尚、義政を相次いで失った日野富子が選ぶ。

つづいて将軍になったのが「流れ公方」。

なんと応仁の乱では義尚の敵となった義視の息子の義稙が将軍となりました。

これには日野富子の選択があったと言われます。

そもそも日野富子とは甥・伯母の関係ですしね。

やはり、武功をあげんとばかりに、そして強い幕府を目指して25歳の時に近江征伐を行ないました。

この時は、義尚の時以上の大軍を率いて勝利します。

各地より大名たちも集まり、まだ将軍家の地位が落ちていないことを証明しました。

しかし、休む間もなく河内国の畠山基家の征伐へ(27歳時)向かい、さらに、その次は越前の朝倉征伐を予定していた。

そこで、負担が大き過ぎることに大名たちから反発の声があがります。

大名たちにとっては義稙が「強すぎる」ことも好まなかったという面もありました。

そして、富子は義稙を廃することを決断しました。

1493年4月、明応の政変。日野富子、細川政元(1466~1507)が河内に出陣中の義稙を捕縛。義稙は京都に幽閉される。(のちに脱走。)

以後、しばしば兵を率いて越前から京に迫り、新将軍となった義澄を苦しめた。

→しかし、1499年、細川に大敗して周防(山口県)まで敗走

1507年、細川政元が暗殺される

大内義興(1477~1528)を味方につけた義稙は京都奪還(1508年)。43歳、15年ぶりの将軍就任である。(執念!)

第2次義稙政権は10年近く安定するが、1521年、細川高国(1483~1531)との対立をきっかけに京都を出奔し四国へ。

2年後、阿波で死去。

男子がいなく、次期将軍候補は義澄の息子となりました。【コチラも

しかし、この執念には恐れ入ります。

【11代:足利義澄(よしずみ)】

運命に翻弄された「孤高の悲将」

★1480~1511.(在1494~1508)
★父:堀越公方足利政知(生まれの順としては義政の兄)。
★祖父:足利義教(つまり、義尚、義稙は従兄弟)。兄:茶々丸

逆に義稙に何度も攻められた方です。

元々は将軍になるような家柄ではありませんで、京都で僧侶として生きていたのですが、「明応の政変」で祭り上げられました。

義稙との決着がつきにくかった理由としましては、

①各大名が義稙と義澄のどちらにも積極的に味方しなかった。

細川政元のキャラクターのため何度も義澄が政元と対立した

ことが挙げられます。たしかに悲運ですね。32歳の若さで病死します。

【12代:義晴(よしはる)】

辛苦をしのいだ「隠れた名将」

★1511~1550.(在1521~1546)
★父:義澄(11代将軍)
★義澄は幼い息子2人を自分に味方する有力者のもとに送っていた。1人は四国の細川家(晴元)に送られた義維(よしつな:~1573)。もう1人が播磨の赤松氏のもとに送られた義晴

義澄は賢いことに自分の息子を有力者に預けておりました。

細川家の方が強そうな気もしますが、足利義稙、大内義興とともに政権を担った細川高国にとって細川晴元は宿敵でした。

そのため、義稙失脚後は高国が赤松氏のもとに送られた義晴の方を将軍に選びました。当時、義晴11歳です。

義稙は失脚早々に死んでおりますが、今度は将軍の座を奪おうと兄の義維がたびたび攻め来ます。

義晴を守るはずの細川高国はしばしば晴元に敗北します。

高国の権力は不安定であったため、義晴自身も不安定になってしまい。近江滞在が数年に及ぶこともありました。(1527年からは約7年)

しかし、したたかなことに、義晴は、1531年、細川晴元が高国を滅ぼすと、晴元と手を結びます

1549年、細川晴元が重臣の三好長慶(1522~1564)に大敗すると近江へ退きます。

晴元とともに三好から京都奪還を企てるが40歳で病死します。

【13代:義輝(よしてる)】

中途で斃れた「未完の英主」

★1536~1565.(在1546~1565)。
★父:義晴(12代将軍)
★父の敵である三好長慶を討とうとするが、なかなか勝てず。
1558年、三好長慶と和解。しばしば義輝に叛いた伊勢氏を粛清。政務、裁判も自ら行うなど、将軍としての声望は高く、英主となる素質が十分にあった。
★1560年、ガスパル・ヴィレラに布教を許可したことでも知られる。

日本史史上、最も劇画チックな最期を遂げた将軍、とでも言いましょうか。(真実はともかく。)

1564年、三好長慶が死没しますが、彼を支えていた三好長慶の弟たちも相次いで死亡してしまいます。さらに、息子の三好義興までも死亡してしまいます。

♨こういった病死が歴史を狂わすなー。

そこで長慶の甥に当たる三好義継が三好家当主となりますが、弱体化は否めません。

三好家は義輝に対して警戒するようになり、義輝の娘を人質にとるなどしました。

そして、1565年、突然、義輝を襲います。義輝死去30歳

♨なんで義輝が死んだのかわからなかったが、脅威だったのか。元々敵対していたわけだし英邁だし。

【14代:義栄(よしひで)】

父の宿願を背負った「阿波の哀将」

★1538~1568.(在1568.2月~9月)
★父:足利義維(よしつな)。
★祖父:足利義澄。
★もしかすると義晴―義輝の代わりに将軍になっていた家系。
父の義維は将軍就任を目指して戦うこと40年。すさまじい闘志である。

★三好三人衆(長逸、政康、石成友通)が次期将軍に義栄を選んだため父とともに上洛(1566年)。

★しかし、三好三人衆と松永久秀(1510~1577)の対立がはじまり、なかなか将軍就任できず。

★ようやく1568年に将軍就任となる。(33歳)

しかし、東方に恐るべき強敵が出現。織田信長(1534~1582)である

★信長は義輝の弟:義昭(1537~1597)を奉じ、義栄の支持者を蹴散らし、畿内を席巻した。これが1568年9月。その後の義栄の消息は不明。

せっかく父の宿願を果たしたと思ったら、実は些細な争いをしていたに過ぎなかったのですね。信長の登場によってかすみました。

【15代:義昭(よしあき)】

信長を悩ませた「希代の梟雄」

★1537~1597.(在1568~1588)
★父:義晴(12代将軍)、兄:義輝(13代将軍)。
★僧侶として奈良で暮らしていた。
★1565年、兄の死により人生が変転。まず、身の危険を感じて奈良を脱出、各地を転々として協力者を求めた。そこで信長と出会う。

★信長と連携して将軍就任。1568年、32歳。

★信長と次第に対立。1573年、京都から追放されてしまい、和歌山へ。

★ここで諦めず、1576年、毛利輝元(1553~1625)のもとへ。ここで、「信長討つべし」と号令を発する。上杉謙信、武田勝頼、大坂本願寺が挙兵。信長包囲網が完成。しかし、彼らは仲間同士疑っていたため、効果は発揮せず。

★義昭のピンチは続いたが、1582年、本能寺の変がおきる。

義昭はピンチを脱したようにも見えたが、結局、秀吉に仕えることとなる。秀吉は一方的に一万石の所領を授け、家臣としたのだ(1587年)。義昭は息子も興福寺に預けたままにして、61歳で死去。

【おわりに】

★戦国期の足利将軍たちは十分な武力がなかったにも関わらず、応仁の乱後、100年も続くなど「しぶとさ」を見せた。

★これは足利家が世間からなお尊敬されており、討ったものは逆臣と言われかねなかったことなどが1つの理由と考えられる。

★また、足利家という看板が諸大名にとって価値のあるものだったことも理由であろう。

★逆に信長や秀吉の登場により、彼らこそが御主と考えるものが増えた。それほど彼らが圧倒的な力を持っていたのだろう。彼らこそが大名たちの領土保有権を強力に保証してくれたのだ。

It is worth noting that the Muromachi period continued for about 100 years after the Onin War. This is probably because the Ashikaga family was still valuable.