~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

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第6章:武士たちの戦後

遠征は諸刃の剣

★1349年、高師直のクーデターで足利直義が失脚すると、それまで鎌倉を治めていた義詮が京都で政務を行い、義詮の弟の基氏が鎌倉を治めることに。この地位を鎌倉公方と呼ぶ。基氏はまだ10歳であったため高師冬、上杉憲顕が補佐。ただ、憲顕は直義派であり最初から波乱含み。はたして子の能憲が挙兵すると、憲顕と合体し、師冬は基氏を連れて鎌倉脱出。しかし、基氏の近臣で直義派の者が師冬派を殺害、基氏を連れて憲顕の下に行くという事件が。玉を奪われた師冬は各地を転戦するも自害。

★観応2年に再び尊氏と直義の争いが勃発、直義は近江で負けた後、上杉憲顕の抑えている北陸道を通って鎌倉へ。ここで尊氏は南朝に降伏のかたちをとって鎌倉攻撃へ。基氏は安房に避難し局外中立。直義は戦に負けた後、突然亡くなる。以後、尊氏は鎌倉に逗留、東国を統治し、義詮が西国を統治すると言う変則的な図式となる。

★東国では新田義貞息子の義興、義宗が上野で挙兵、後醍醐息子の宗良親王が信濃で挙兵、上杉憲顕(かつては尊氏軍総大将)も挙兵。しかし、武蔵野合戦で尊氏に敗北。

★畿内では南朝方が蜂起、正平一統を破り京都へ進軍。義詮は大敗し近江に逃げる尊氏の遠征により主力が留守になってしまったのが原因とはいえ、義詮は失敗をした

足利義詮の挫折

★後光厳天皇は義詮を信用しておらず、文和元年(1352年)の足利直冬・南朝連合軍の挙兵に際し、尊氏に上洛を要請。尊氏は武田家らを率いて上京。

★1354年、義詮は佐々木道誉、赤松則祐らを率い直冬討伐へ。直冬、山名、桃井、斯波らは挙兵し、続々入京。尊氏はいったん近江に行くが義詮は引き返し、山崎で山名家と戦闘。なんとか勝利するも京都戦線では膠着。ここで関東より畠山家が加わり七条西洞院で合戦。この「文和東寺合戦」で多くの東国武士も死去するが尊氏勝利。ただ、これもまた義詮の失策でもある。以後、義詮は直冬・時氏に積極攻勢策は行わず、赤松家や細川家を山名氏への抑えとして配置する。

畠山国清の勘違い

1358年、足利尊氏54歳で死去。尊氏に従った武将も関東に帰る。後継者は義詮であるが、補佐役である執事は誰にするかが問題となった。高師直の死後は仁木頼章が務めていたが、尊氏死後は出家。そこで文和東寺合戦などで功績のあった細川清氏がなった。

★義詮ー清氏の政策の目玉が畿南の南朝追討。畠山国清は関東軍を率いて参じるも、やる気があったのは細川清氏と畠山国清のみ(2人は盟友)。名将の誉れが高い仁木頼章弟の仁木義長は西宮で傍観(義長と細川はライバル)。清氏、国清、土岐頼康らは金策も尽き南朝を攻めきれず撤退。

★南朝方の楠木正成3男の正儀、および和田正武が蜂起すると、細川、畠山、土岐が義詮の命を待たずに出陣、天王寺に向かうがこれは偽装で、実は仁木義長を討つため。義長は将軍御所の警備と称して義詮の身柄を確保するが佐々木道誉の手引きで義詮は御所を脱出。義長は不利を悟り、京都を脱出、やがて南朝方に転ずる。

♨ややこしい…

★畠山国清は東国武士を連れて尊氏の再来をイメージしたのであろうが、南朝は滅ぼせず、勢力争いにうつつを抜かしている間に義詮も危機に陥れるなどしたために、信頼を失う。そのうえ、無断帰国した東国武士たちの所領を没収。

★1361年、京都で清氏が失脚した後、東国武士の要求により、足利基氏(22歳)は畠山国清を罷免。国清は国元の伊豆へ帰るが、東国武士に討伐例が出される。半年後、降伏。

遠征はもうこりごり

★同じ頃、京都も混乱していた。1361年9月、細川清氏は義詮と対立し国元の若狭へ。若狭へ幕府軍が攻め込むと今度は南朝に降参。12月に細川清氏、楠木正儀は京都に進撃。義詮は一度、近江に逃れた。

★山名シフトが効果があったのかどうかはともかく、最強軍団の山名時氏は、もはや幕府転覆に関心を示さなくなっており、軍の疲弊を考え「遠征は無益、地方に自らの王国を作ろう」という方針に変わった。

★京都は盆地で守るにくく、攻めやすい。南朝が4度も奪い返すことができたのはこのせいであるが、湖西道を抑えられると干上がる。事実、20日ほどでまた奪還された。

★山名時氏だけではなく、征西将軍府の懐良親王も1361年に大宰府を制圧して九州に覇を唱えても南朝の上洛要請に従わず、征西将軍府を独立的な地方政権にしようと考えた。北畠顕家の頃とは大違いである。室町幕府の功臣たちも30年近く戦い続け、攻めることより守る姿勢に変わった

★南朝はジリ貧だが、その南朝を討つだけの力は義詮には残っていなかった。

大内氏・山名氏の「降参」

★1363年春、大内弘世が幕府に帰参。それにあたり、周防、長門の守護職を要求。義詮は「西国の安定」を名目に了承。

★これで長年、幕府方に尽くしてきた厚東義武は守護職剥脱され、九州に渡り征西将軍府に仕えた。大内は九州侵攻を開始し、大内vs征西将軍府・菊池・厚東になるも大内氏撤退。

★山名氏は幕府軍に対して優勢であったが、直冬は劣勢。大内氏の帰参を見て、ついに直冬を見限り幕府に帰参。伯耆・因幡に加え赤松家と争っていた美作、仁木家と争っていた丹波、丹後の守護職となる。

(※山名氏は群馬出身だった!実際に、高崎と藤岡の間くらいに山名という地名がある。)

★また、義詮は鎌倉公方の足利基氏と相談し、上杉家の帰参も画策。上杉憲顕は直義党の有力武将で、新田一族と組んで越後守護の宇都宮家と争っていたが、義詮は宇都宮に見切りをつけ、上杉憲顕を越後守護、関東管領に。大内、山名、上杉の帰順で内乱は急速に収束。あとは九州などの一部に。

★その後、諸将は上洛命令により京都常駐、幕府の政治に深くかかわるようになり、「大名(たいめい)」と呼ばれるように。守護は固定化が進み、「守護家」が確立され、安定。曲がりなりにも戦乱終結への道を切り開いた足利義詮の政治手腕には一定の評価を与えるべきであろうが、巨大勢力をそのまま残すことは将来の禍根のもとでもあったことは否定できない

★山名、大内の牙を抜くのは次の義満の時である。

応安大法は大規模戦闘終結宣言

1367年、足利基氏死去。佐々木道誉が関東に。しかし、義詮も同年没する。義満、わずか10歳であったため細川頼之が管領となり政務を取り仕切る

★1368年、上杉憲顕が相続祝いで上洛すると、関東の反上杉勢力が蜂起(武蔵平一揆の乱)。しかし、返り討ちにあう。以後、関東統治は鎌倉公方に任せ、関東管領上杉家を通じて公方の暴走を抑えると言う間接支配の方向に。

★義満政権最初の仕事は「応安大法」。応安の半済令とも言うが、半済令は一部でしかないのでやや不適切。義詮の寺社本所保護路線を引き継ぐものであった。武士が大半を占拠しているので、半分は本所に返してあげろ、というもの。

★ただ、実際に実行するのは守護であるため、どれほどの効果があったかは不明。しかし、代替わりでの徳政的な意味合いもある。また、寺社が徳政のターゲットになっている点がポイント。人々の信仰心は薄れてきたからこそ、寺社を大事にしよう、的な。

★幕府の意気込みは強かった。半済令はもともとは武士のために戦乱時に一時的に出された軍事措置であったが、武士にとっての半済が大きく制限される形となった今回の法令が出されたという点で、戦時体制の終了を意味したかった。

戦闘態勢の解除

★戦乱の時期には京都での訴訟は困難。戦争が終わったからこそ、遠隔地所領を裁判で取り戻そうという動きも出てきた。

足利義満の一族離間策

★1379年、反頼之派の蜂起により失脚し頼之は讃岐へ。「康暦の政変」と呼ばれ、一般には細川vs斯波で語られるが、実際は細川vs「斯波+土岐」である。この頃、佐々木、山名は既に死亡。この政変で土岐頼康は美濃、尾張、伊勢の3か国の守護職を兼任し、東海道の入り口を掌握した。これは義満によって脅威

★細川失脚は義満にとっては痛手であったが、自立のきっかけにもなった。1387年、土岐頼康が70歳で生涯を閉じると、養子の康行が継承。しかし、義満は在京の康行の弟、満貞をかわいがり尾張を満貞に与えた。これにより兄弟が反目。1390年、頃合いを見計り義満が軍事介入。その後、最終的に満貞は翌年の「明徳の乱」での失態を口実に尾張守護を罷免となった。義満のワナである(!)。

★山名氏は1371年に時氏が亡くなってからも、1378年の南朝方の乱の征伐の功績で紀伊、和泉の守護職となり、康暦の政変でも守護職を増やし11か国の守護となり、「六分の一衆」と呼ばれるようになっていた。しかし、義満は相続争いに介入し、反主流派を焚き付けて惣領と戦わせ、反主流派も後で切り捨てることで戦力を削った。これを1391年の「明徳の乱」という。これにより山名氏の所領は3か国に。

内乱の幕引き

★山名氏の次の巨大勢力は大内氏。康暦の政変で豊前、明徳の乱で紀伊、和泉を獲得し、周防、長門、石見をあわせて6か国に。山口と堺を結ぶことで海外貿易も推進された。ここまで認めたのは南朝攻略に必要であったからであろう。

★1392年、大内義弘の仲介で南北朝の合一が成立。南朝の後亀山天皇が帰京し、北朝の後小松天皇に三種の神器を引き渡す。

★1394年、義満は将軍職を義持に譲る。

★1395年、九州探題今川了俊が更迭。これには国際貿易港・博多を掌握したいと考えていた大内義弘が一枚かんでいた。義満は依然として義弘を買っていたが、次第に義弘は大功を鼻にかけるようになり関係がぎくしゃく。

★1399年、応永の乱(堺合戦)。義弘は自分が殺されるのではないかという噂を信じ、義満に謀反。鎌倉公方足利満兼と共謀するも満兼は関東管領上杉憲定による強硬な反対により出兵できず。最終的に大内義弘討死も、防長2か国は安堵、足利満兼も安堵。そこまで遠国には幕府も派兵できなかったからでもある。

★遠江半国守護今川了俊は乱への関与を疑われ引退。

義満は紀伊、和泉を大内氏から取り上げ、畿内を忠実な大名で固めた。もう自ら戦うことはなくなり、ついに内乱の時代に幕を引いた

弓矢よさらば

★この頃、一揆の目的は「共に戦う」から「共に訴える」に変化。

★大内義弘がいかに義満の非を訴えたところで、戦争をすることを武士たちはもう望んでいなかった。武士たちも守りに入ったのである。

★1397年、北山弟の造営に当たり義満が諸大名に人夫や材木の提供を依頼した際、大内義弘が「自分は弓矢によってお仕えしているのだから、土木作業に関わるつもりはない」と答えたのは有名。義弘は時代を読み違えていた。

summary (略年表)

1349年、高師直のクーデターで足利直義が失脚。鎌倉公方設置。初代は義詮弟の足利基氏。

1352年、文和東寺合戦で足利尊氏が東国武士を連れて南朝方を打ち破る。

1358年、足利尊氏、54歳で死去。

1361年、山名時氏、征西将軍府の懐良親王は京都での動乱および上洛要請に付き合わず。意識変化。

1363年、大内氏、山名氏帰参。しかし、これは降伏と言うよりは守護の地位を得るための対等な交渉。

1367年、足利基氏死去。佐々木道誉が関東に。義詮⇒義満に。細川頼之が管領。「応安大法」。

1368年、武蔵平の合戦。関東統治は鎌倉公方に、関東管領上杉家が公方の暴走を抑えると言う構図に。

1379年、康暦の政変で細川頼之失脚。斯波氏の裏には土岐氏。美濃、尾張、伊勢の3か国の守護職に。

1390年、土岐氏の乱。土岐家に内紛を起こしたところに義満が軍事介入。東海道の入り口が忠臣に。

1391年、明徳の乱。山名氏の遺産相続に義満が軍事介入。山名氏は11か国⇒3か国に。

1392年、南北朝合一。

1394年、義満、将軍職を持氏に譲る。

1399年、応永の乱。大内義弘討死。紀伊、和泉を取り上げる。

最終的に義満は紀伊、和泉を大内氏から取り上げ、畿内は忠実な大名で固め、自ら戦うことはなくなり、ついに内乱の時代に幕を引いた

終章:戦後レジームの終わり

妥協の産物としての室町の平和

★足利義満を専制君主的な扱いにする論者も少なくないが、派手なイベントとは裏腹に謀反の動きを見せた鎌倉公方足利満兼、大内氏の処分など、現実では多くの妥協を強いられた。義満の決定に公然と異を唱えた大内盛見は結局、守護に。九州攻略もこれにて頓挫。

★関東、九州の守護は守護在京制をとらず、そもそも奥羽は守護がおらず、これらの地方には半独立的な性格を容認することで平和を達成した

★次の義持の時代にも遠国の問題には室町殿が独断で政策を進めるには諸大名の同意が必要と言う不文律があった。強硬策に傾きがちな義持を、細川、斯波、畠山、山名、一色、赤松が表向きは同調するかのように見せて穏便な方向へ軌道修正するというのが常で、諸大名は負担に消極的、義持は我慢を強いられた。

(※しかし、この時代の勉強で難しいと感じるのは苗字だけではなく名前も覚えないといけないところ。しかもその名前が一字違いであったりすること…。それと読み方が現代と違うものが多いこと…。あと、戦乱を起こすうえで、大英帝国は弱い方に味方していたというが、足利家もそうしていた、ということがわかった。これは為政者が考える必然の選択なのか?)

足利義持と諸大名の手打ち

★義持もただ我慢していただけではなく、富樫満成などを重用。生前の義満にかわいがられていた弟の義嗣に謀反の疑いがもたれた時は満成に調査させた。もっとも義嗣は1416年の【上杉禅秀の乱】で潜在的な危険分子として殺害。さらにこれに嫌疑をふっかけて畠山、山名、土岐にも処分。

※上杉禅宗の乱:前関東管領上杉禅宗が鎌倉公方足利持氏に対して起こす。

★しかし、富樫満成は逆に義嗣に謀反をそそのかした張本人と嫌疑がかけられて、義持により追放され、畠山満家により殺害される。義持は諸大名を削ろうとしたが予想以上に反発が強く、トカゲのしっぽ切りを行ったという感じであろう。

★続いて台頭したのが赤松持定。彼は赤松家の傍流。こういう手法は義満からの遺産。しかし、播磨守護職を取り上げられた赤松満祐は激怒し京都の屋敷に火をつけ播磨へ帰る。赤松討伐の話が持ち上がるが(1427年)、やる気を見せたのは近隣の山名だけ。ここで、持定の女性スキャンダルが発覚し、切腹。これはおそらく諸大名の反発が強かったからのことであろう。満祐はその後、何事もなかったかのように帰京。彼らは決して恨みを忘れたりはしないが、同時に礼節を尽くすことも忘れない。恨みを抱いているその相手と平然と語り合い、ともに笑い合える。これにより薄氷の上の平和を保つことができたとも言える。

ハト派の重鎮、畠山満家

★義満が右大将拝賀をした際に、諸大名の先頭であった一色家であったが、6代将軍義教の際には畠山持国が先頭に決まったことに腹を立て仮病。これを問題視した義教は山名時煕、畠山満家に相談するも畠山満家は赦免を主張。赤松満祐の時もそうであった。義教は不満であったが、満家は他の大名も取り込み穏便な処分に(1430年)。

畠山満家は義満が築いた戦後レジームの信奉者。鎌倉公方足利持氏謀反の噂の際も、穏便に解決を図る。(1431年)

★同年の九州での大内家の家督相続の際もそう。地方で少々反抗があっても幕府の屋台骨までは及ばないと言う認識があった。遠国放任策である。むしろ不用意に首を突っ込む方が危険であると。

1433年、畠山満家62歳で死亡。南北朝内乱を経験した最後の世代だったハト派重鎮の死は義教が強硬路線に舵を切るきっかけとなる

「戦後レジームからの脱却」を目指して

★1432年、畿内の争いには不介入であったが、筒井と越智の抗争に際して筒井支援。(大和永享の乱=室町幕府にとってのベトナム戦争)

★1433年、九州における幕府軍による大友、少弐討伐作戦。

1434年、延暦寺の門前町坂本を焼き払う。(永享の山門騒動)⇒翌年、僧らの焼身自殺の件。

1435年(永享7年)、大和永享の乱に本格介入。畠山持国、一色義貫が出陣。京都に残る有力大名は細川、山名、赤松。難航する越智惟通討伐に義教自身が出馬しようとするも阻止。

室町幕府の「終わりの始まり」

★関東でも再燃。反抗的な態度の足利持氏に対して関東管領上杉憲実がストッパーの役割。これにより持氏と憲実の関係が悪化。1437年、持氏は信濃守護小笠原討伐と称して憲実征伐を画策しているという噂が広まり、憲実派武将が鎌倉へ。軍事衝突寸前までいくが回避も、憲実と持氏の対立は修復不可能に。

1438年(永享10年)、いよいよ戦争。これまで憲実と幕府は綿密に連絡をとっていたこともあり幕府の行動も迅速で幕府軍勝利。憲実は持氏の助命を嘆願するが、義教は抹殺を命じ、関東永享の乱は終結

★幕府は二正面作戦を強いられたが、関東が終結してから大軍を大和に派遣し、1439年、ついに越智惟通を征伐。ただ、義満もできなかった関東、大和制覇をしたことで慎重さ、細心さは奪われ独裁的になり諸大名を無視。一見、「将軍権力強化」に写るが、幕府の自壊を防止するための安全弁を自ら除去することを意味した

(※足利持氏1398-1439、上杉憲実1410-1466との間は約12歳。足利義教は1394-1441で持氏とは4歳しか離れていない。年齢順に「6代将軍義教」⇒「鎌倉公方・持氏」⇒「関東管領・憲実」。)

追いつめられた赤松満祐

★赤松満祐と足利義教は最初から仲が悪かったわけではない。義満が4歳の時に播磨に避難していた時の「赤松ばやし」の件に加え、伊勢北畠家(親房の3男の子孫)に旧南朝方が担がれた時に解決した件、大和永享の乱における弟・義雅の活躍の件など。

★永享9年、赤松満祐の所領が取り上げられる噂があったが、これは義教自ら火消しに訪れる。しかし、永享12年、関東、大和、北九州の戦乱が鎮定されると義教は強気に義雅の所領を全て没収、赤松満祐、細川、赤松貞村に配分しようとしたが、摂津小屋野(今の伊丹市)は代々惣領の土地であるため貞村に渡すことに難色。(貞村は義教のお気に入り。)

★同年、大和から撤収しようとした一色、土岐が武田信栄(安芸武田)、細川持常(讃岐)らによって謀殺。京都では一色義貫の甥である教親が義貫の館を襲撃し家臣を討ち取る。武田信栄、細川持常、一色教親は一色義貫の分国若狭、三河、丹後をそれぞれ受け取り、土岐持頼が持っていた伊勢守護職も一色教親に。彼らは義教の側近である。

鎌倉公方の脅威こそが室町幕府を一致団結させていた元であったが、これがなくなったことで大名たちは保身に。畠山満家のように命をかけて他の大名を庇うよう諫言するものもいなくなった。

★結城合戦(結城氏朝が持氏の子を担いで下総で決起)で赤松惣領家に義教の手が伸びることはなかったが、これが落着すると加賀守護の富樫教家(満春の子)が追放。いよいよ赤松満祐も追い込まれる。

将軍犬死

★嘉吉元年(1441年)、赤松教康(満祐息子)が戦勝祝賀会を企画。この頃、連日のように祝勝会が催されていた。そこへ、甲胄を身につけた武士が後ろの襖から登場、一瞬で義教ほか、義教お気に入りの公家・三条実雅は討死。逃げた諸大名もいたが、山名煕貴、細川持春、大内持世ら討死。赤松はおそらく一網打尽を企んでいたと思うが、一目散に逃げた大名がいたおかげで完全なクーデターとはならず。(嘉吉の変

★赤松家は播磨に逃走したが追撃する大名はおらず。大名同士も疑心暗鬼で、下手に動くと仲間と思われることが予想された。跡継ぎは8歳の嫡男であり、管領の細川持之が政務を行ったが、混迷を裁く器量はなかった。義教に押さえつけられていた不満分子に太陽政策を行ったが、これが仇となり各地で不穏な動きが見られるように。

「幕府を、取り戻す」

★嘉吉の変の翌月、追討軍が決定。摂津から細川持常、赤松貞村、赤松満政が播磨に侵攻、北の但馬から山名持豊が播磨に侵攻、山名教清が西の伯耆から美作を経て播磨に侵攻の手筈であったが、山名持豊がなかなか侵攻せず、軍資金と称して京都の金融業者から強引に金品を取りたてた。激怒した細川持之が持豊を討とうとしたため慌てて謝罪という一幕も。

★己の指導力を痛感した持之は後花園天皇に綸旨を得る。どうにか赤松を討ったが、爪痕はあまりに大きかった。7代義勝は病没、8代義政がまたしても8歳という若さで就任。政務は新しく管領に就任した畠山持国が代行することに。

★義教時代は家督相続も義教が決定するような状況であったが、以後、家督候補者が二派に分かれて激しく争うことが一般化された。彼らは家督争いを有利に進めるために幕政の中核にいる管領家と結びつこうとした。管領に就任できるのは【斯波・細川・畠山】であったが、斯波氏は相次ぐ惣領の早世で弱体化。実質、細川と畠山の二家であった。

♨管領は「ほ・し・ばたけ」(=細川、斯波、畠山)ってやつね。

★畠山持国が剛直な性格で知られる剛腕政治家。やや気分屋。

★嘉吉2年に細川持之が没すると嫡子の勝元が後を継ぐが、13歳であったため、叔父の持賢が後見。

幕政は細川vs畠山、各守護家でも細川派vs畠山派に

★義満時代も斯波vs細川はあったが、細川頼之は長期政権であり、その後の斯波義将も管領期間は10年を超える安定政権であった。派閥抗争よりも「対南朝」を優先するという合意があった。義政時代は3,4年でころころ変わり、その都度、守護人事、関東政策が変わって、混乱に拍車がかかった。

★1449年、義政は元服して将軍となり政治意思を発揮していく。後年のイメージが強いが初期は積極的に政務に関わっていた。

★義政は畠山持国を支援して、細川勝元を牽制しようとしたが、1455年、畠山持国が亡くなり、その後のお家騒動で畠山家が弱体化。細川勝元との関係改善および側近勢力の育成を進める。この代表が畠山持国のバックアップを受けていた伊勢貞親。しかし、伊勢貞親の台頭は管領家の地位の相対的低下を生み、今度は細川勝元と伊勢貞親の権力闘争が激化する。

空洞化する京都

★義政が伊勢貞親を登用したのは「戦争がしたかった」という側面がある。義政は義満にあこがれていた。その後、守護はなかなか戦闘に参加しなかったため不満に思っていた。

★この就任初期の度重なる軍事行動で武士は疲弊。毛利家、小早川家など、惣領のみ戦闘に参加する状態。軍役の配分を巡り、地域も軍事衝突の種になり、皮肉なことに戦乱平定のための義政の政策は地域紛争を再生産した。

★大和国の伝統ともいえる筒井vs越智、畠山家の内紛への介入に加え、生活費や交際費がバカにならなくなってきて、ついに在京の惣領たちは京都での生活を捨て、所領に帰って行った。一族支配の引き締めもあったであろう。武士たちは将軍に奉仕し、歓心を買うよりも、在国することにメリットを見出した。

★貞治・応安年間の軍事的安定で在京奉公する武士は増え、明徳の乱や応永の乱を経て京都に常駐する武士は固定化。しかし、この時期の武将にとって幕府との関係よりも当時、戦争に参加していた近隣の大大名である大内氏などとの関係が重要であった。応仁の乱の根底には各地で発生していた近隣武士間の争いが伏在していたのである

★京都の義政は現地の実情を把握しないまま地域紛争に過剰に介入し、遠征負担に耐え切れなくなった在京直臣は次々と下国してしまった。そして京都の空洞化は幕府の求心力を弱め、中央からの制御を失った地域社会は弱肉強食の戦国時代へと突入していく。

山名宗全と戦後レジーム

★応仁の乱では足利将軍家の家督争い+斯波氏、畠山氏の家督争いに山名宗全と細川勝元の争い、と理解されているが、近年の家永氏の研究によると日野富子と山名宗全の提携は後世の軍記物「応仁記」の創作であるという。現実の山名宗全はむしろ義視と親しく、実際に応仁の乱の前年の文正の政変では義尚の養育係の伊勢貞親を追い落とし、義視をアシストしている。よって、応仁の乱と将軍後継問題は無関係

★乱の直接的な要因となったのは1467年正月の義政の決定。細川方の畠山政長を畠山氏惣領から降ろし、山名方の義就を新惣領と認定したところにある。これに抗議して政長が管領職を降りると後任に宗全の娘婿の斯波義廉を据えた。おそらくこれは山名宗全の仕掛け。義尚を将軍にするためではなく、政権掌握が目的。これに対して細川勝元が反撃に出たのが応仁の乱であり、火付け役は山名宗全、とみられる。

★山名氏は明徳の乱で叩かれ3国となったが、応永の乱と大内盛見討伐、嘉吉の変で再浮上。かつて山名シフトを赤松、細川で行っていたが、それはこの時代も続いていた。赤松没落で細川だけで支えきれなくなってきたことでさらに膨張していたが、南朝方という旧敵国という意識などで反主流派であった。

足利義政の錯誤

★そこで山名宗全は一族の娘たちを養女としたうえで幕府の対山名包囲網を無効化した。大内氏、細川氏がその対象で、大内氏は少弐氏、細川氏は畠山氏と対立を抱えていたのでこの提携は喜んで受け入れられた。もっとも、大内氏と細川氏は瀬戸内海水運をめぐって対立することになるが。

★細川勝元が畠山持国、伊勢貞親と勢力争いをしている間に、山名宗全は着実に力を蓄える。

★1466年、伊勢貞親は足利義視に謀反の罪を着せて抹殺しようとしたが、細川勝元・山名宗全ら諸大名の反撃を受けて失脚(文正の政変)。この時、彼のグループも失脚し、足利義政は手足をもがれた格好となり、以後、政務への関心を失っていく。

★義政の最大の判断ミスは何か、という問題を考えると「京都しか視野に入っておらず、山名宗全の脅威を軽視した」点に尽きる、と考える。細川持之、畠山持国は「礼儀を存ずる輩」であったが、山名宗全は「濫吸を表す輩」、と評される。

山名宗全は旧敵国に位置付けられ、どんなに実力があっても管領に慣れず、現状打破のメンタリティーをもっている。圧倒的な軍事力によって周囲を黙らせてきた。よって、室町幕府にとって最も危険な存在は既存の体制内で権力拡大を目指す細川勝元ではなく、戦後レジームを根本から覆そうとする山名宗全であった。義政が勝元との政治ゲームに興じた結果、宗全が漁夫の利を得て応仁の乱へとつながった。

足軽と土一揆

★応仁の乱の特徴としては足軽の横行。彼らは掠奪によって生活するしかないので寺社や富裕層から金品・資材を強奪。

★当時、土一揆は2年に1度くらいの頻度で生じていた。土倉・酒屋などお高利貸資本から借金した人々が債務破棄のために徳政を求めて一揆を起こしたというイメージが強いが、実は土一揆の主体は京都の住民ではなく、むしろ土倉に対して債務を行っていない京都近郊の農村の百姓であった。

★土一揆の側にいてもおかしくないような人物を幕府や守護は起用しなくてはいけなかった。土一揆を弾圧するために足軽を抱えこんでいた守護軍はいつしか宿敵である土一揆そっくりの姿へと変貌し、掠奪を行うようになった

応仁の乱の最中、土一揆は姿を消したと言うよりは、土一揆の武力が足軽として諸大名に吸収された、という表現が適する

村の「集団的自衛権」

★室町時代においても正規軍と野伏部隊の二本立てと言う構図は変わらなかった。しかし、新たな動きとして守護軍から独立した村の軍事組織が成立していたという点が挙げられる。これは村が戦費調達の略奪対象であったことに対する自衛のためのものである。村どうしの争いの際は、銭で刺客が雇われることもあった。

★応仁の乱が始まると、西軍も東軍も、村々を味方につけようと働きかけた。村の軍事力による交通路の掌握、兵粮の補給は大事。たとえば1468年、山科の16の村々は東軍の命令で東山通路を封鎖し、西軍が大津から京都に侵入するのを阻止。この戦功は半済。つまり、武士たちが手にしていた半済を、ついに百姓が手に入れることになる。なお、宇治へ逃げた西軍の撃退要請には応じていないことからも遠征には否定的であった。以後も、半済を餌に武力を動員する形態の戦争が一般化する。これが応仁の乱が転換点であった。

勝者なき戦争

★応仁の乱の前哨戦が文正2年(1467年)正月の御霊合戦。畠山義就が畠山政長に勝利。これは山名宗全の思惑通り。5月に細川方(東軍)が室町殿を占拠して玉を確保し反撃。8月に大内正弘上洛し、西軍が巻き返すも反乱軍の汚名が痛手。ここで応仁2年、義政が伊勢貞親を呼び戻したことで義視が激怒、西軍に身を投じる。これで西軍も大義名分を確保。2つの幕府が存在することになり、西幕府も独自に守護の任命を行う。

★1473年、山名宗全、細川勝元が相次いで病死。翌年、後継者の山名政豊、嫡子の細川政元が諸将の同意を得ずに単独講和を結ぶが、戦乱はその後も続いた。足軽の無軌道な行動は諸大名も統制できなくなっていた。

★1477年、西軍が解散、その後は義政⇒義尚となったことから、あえて言うなら「東軍の勝ち」とされているが、細川氏が命がけで守ろうとした戦後レジームは内側から壊れていった。まず、守護在京制の崩壊。細川氏に至っても、権力の及ぶ範囲が限定され、庶子家も含めた同族連合体制は無実化してしまった。

墓穴を掘って下剋上

★戦後レジームの自壊を象徴する第2の現象が、守護家の凋落に代表される身分秩序の解体である。もともと義政は斯波義敏の家老である甲斐常治、京極持清の重臣である多賀高忠、赤松政則の重臣である浦上則宗などの陪臣に直接指示することが多かった。これは守護が自分の命令に従わないために編み出した苦肉の策であったが、将軍を頂点とする武家社会の身分秩序を自ら破壊することとなった。

★こうした傾向は応仁の乱の発生で顕著に。1470年、西幕府は大和の一武将に過ぎない越智家栄を和泉守護に任命。それまで西軍の出征要請に軍勢は派遣したものの本人は大和を離れなかったのに対して、早速河内に自ら出陣するなど抜擢人事の効果は抜群であった。

★同様の人事は東幕府も行っている。例として【朝倉孝景】は斯波義廉の重臣であったが東軍に寝返るにあたって越前守護を要求。東越前の越前守護は斯波義敏が就任していたが、のちに正式に任命書を送るとして引き抜き。結局、この約束は実行されなかったが、将軍や大名がこの種のことが行われることに抵抗感がなかったことは注目に値する。実力のあるものに一国の支配を任せると言う考えは下剋上を容認する考え方でもある。

★1493年、細川政元はクーデターで10代将軍足利義材(義稙)を廃立。(明応の政変。)その政元も1507年、家臣の香西元長により暗殺。元長は政元の養子の澄之を新当主にした。(永正の錯乱。)足利義政や細川勝元はおのれの利益のために下剋上の風潮を煽ったが、それによって勢いを増した下剋上の嵐はやがて将軍家や京兆家(細川本家)自身をも飲み込んでいった

平和は「きれい」か

★足利義教や義政が関東や大和の軍事介入に踏み切り、抵抗勢力を徹底的に排除しようとしたことに対して戦後の歴史家は厳しく批判してきたが、将軍の命令に従おうとしない反抗勢力を放置することで得られる平和はかりそめに過ぎないという主張が彼らにはあるだろう。もっとも、彼らは遠隔地への出陣に後ろ向きであった武士の現実を無視していた絵空事でもあったが。

★南北朝期、一時的に南朝に降参した尊氏、幕府に反抗的な大内、山名をあっさり許した義詮は信念のない機会主義者にも見られる。

★義満の平和も幾多の謀略によるものであり、義持は諸大名との武力衝突を避けるため側近を切り捨てた、彼らは猜疑心が強く、酷薄な人間だが、まずまずの平和を実現したところは評価できるとしても、大した理想などなかったのではないか。

筆者は改憲は必要ないと思うが、9条を過度に美化するのも違和感を覚える。9条が今まで維持されてきたのは「今の生活を守りたい」という程度の素朴な心情によるものだとみる方が自然である

★アメリカの軍事力の傘で維持された日本の平和が立派なものかどうかも一考の価値があるだろう。小林よしのり的な、あるいはネット右翼的なものは魅力的に映るのが当然で、「カッコよさ」で護憲派の勝ち目はない。ただ、だからといって改正ではない。小林氏の言う「平和ボケ」であろうと、朝鮮戦争やベトナム戦争に派兵するような仮想日本より今のあゆみの方がマシだった、と思いたい。もっとも、人類は太古より戦争をしており、平和を愛しているとは言い難い。

★しかし、完璧な平和を追い求めることはかえって戦争を招きよせる危険がある。後醍醐天皇、足利義教、義政も「恒久平和のための戦争」をレトリックとして使用したが、これにより破滅した。本当に平和を創造維持しようとするなら、現実主義に立脚すべきである。(善隣外交や友愛なんて言わずもがな。)畠山満家は諸大名の勢力均衡を維持するためには義持側近を殺害することをためらわなかった。

戦うことが仕事の武士でも無益な戦争は望まなかった。単なる損得勘定でもあるが、日本の平和主義は現実よりも理念に傾いている。ハト派こそリアリズムに徹するべきであろう

(※マーガレット・サッチャーが以前、「政治に必要なものは?」との問いにしばらく考えて、「しっかりした野党の存在」と言ったというのを思い出した。室町時代の政治を見ると「適度な敵対勢力」がいるということがいかに大事かがよくわかった。)

summary (略年表)

1416年、上杉禅秀の乱に際し、足利義嗣殺害。しかし、計略を行った富樫は畠山満家により殺害。

1427年、赤松満祐討伐軍が組織されるが、結局、赤松満貞を手討ちに。足利義持政権は妥協によって成立していた。

1433年、ハト派重鎮として、鎌倉公方の足利持氏謀反疑いや大内氏の家督相続の際などで穏便な処置を行った畠山満家が死亡義教が強硬路線に舵を切るきっかけとなる

1434年、延暦寺の門前町坂本を焼き払う。(永享の山門騒動)

1435年、大和永享の乱に本格介入。

1438年、関東永享の乱。足利持氏ついに抹殺。関東が終結してから大軍を大和に派遣し、1439年、ついに越智惟通を征伐。ただ、関東、大和制覇をしたことで独裁的になり諸大名を無視。一見、「将軍権力強化」に写るが、幕府の自壊を防止するための安全弁を自ら除去することを意味した。

1441年、嘉吉の変。義教時代は家督相続も義教が決定するような状況であったが、以後、家督候補者が二派に分かれて激しく争うことが一般化。彼らは家督争いを有利に進めるために幕政の中核にいる管領家(斯波・細川・畠山)と結びつきを求めた。斯波氏は相次ぐ惣領の早世で弱体化。実質、細川と畠山の二家。幕政は細川持之、勝元vs畠山持国、各守護家でも細川派vs畠山派に。義満時代は派閥抗争よりも「対南朝」を優先するという合意があった。義政時代は3,4年でころころ変わり、その都度、守護人事、関東政策が変わって、混乱に拍車がかかった。

1449年、義政元服。後年のイメージが強いが初期は積極的に政務に関わっていた。畠山持国を支援。

1455年、畠山持国死亡、その後のお家騒動で畠山家が弱体化。細川勝元との関係改善および側近勢力の育成を進め、伊勢貞親をバックアップ。しかし、今度は細川勝元と伊勢貞親の権力闘争が激化。この頃の武士たちは将軍に奉仕し、歓心を買うよりも、在国することにメリットを見出した。応仁の乱の根底には各地で発生していた近隣武士間の争いが伏在していた

1466年、伊勢貞親は足利義視に謀反の罪を着せて抹殺しようとしたが、細川勝元・山名宗全ら諸大名の反撃を受けて失脚(文正の政変)。この時、彼のグループも失脚し、足利義政は手足をもがれた格好となり、以後、政務への関心を失っていく

1467年、応仁の乱。近年の家永氏の研究によると日野富子と山名宗全の提携は後世の軍記物「応仁記」の創作であるという。現実の山名宗全はむしろ義視と親しく、実際に応仁の乱の前年の文正の政変では義尚の養育係の伊勢貞親を追い落とし、義視をアシストしている。よって、応仁の乱と将軍後継問題は無関係。乱の直接的な要因となったのは1467年正月の義政の決定。細川方の畠山政長を畠山氏惣領から降ろし、山名方の義就を新惣領と認定したところにある。これに抗議して政長が管領職を降りると後任に宗全の娘婿の斯波義廉を据えた。これに対して細川勝元が反撃に出たのが応仁の乱である。山名氏は明徳の乱で叩かれ3国となったが、応永の乱と大内盛見討伐、嘉吉の変で再浮上。かつて山名シフトを赤松、細川で行っていたが、それはこの時代も続いていた。赤松没落で細川だけで支えきれなくなってきたことでさらに膨張していたが、南朝方という旧敵国という意識などで反主流派であった。そこで山名宗全は一族の娘たちを養女としたうえで幕府の対山名包囲網を無効化した。大内氏、細川氏がその対象。義政の最大の判断ミスは何か、という問題を考えると「京都しか視野に入っておらず、山名宗全の脅威を軽視した」点に尽きる、と考える。細川持之、畠山持国は「礼儀を存ずる輩」であったが、山名宗全は「濫吸を表す輩」、と評される。室町幕府にとって最も危険な存在は既存の体制内で権力拡大を目指す細川勝元ではなく、戦後レジームを根本から覆そうとする山名宗全であった。応仁の乱の最中、土一揆は姿を消したと言うよりは、土一揆の武力が足軽として諸大名に吸収された、という表現が適する。また、新たな動きとして守護軍から独立した村の軍事組織が成立していた。

応仁2年、義政が伊勢貞親を呼び戻したことで義視が激怒、西軍に身を投じる。これで西軍も大義名分を確保。2つの幕府が存在することになり、西幕府も独自に守護の任命を行う。

1473年、山名宗全、細川勝元が相次いで病死。翌年、後継者の山名政豊、嫡子の細川政元が諸将の同意を得ずに単独講和を結ぶが、戦乱はその後も続いた。足軽の無軌道な行動は諸大名も統制できなくなっていた

1477年、西軍が解散、その後は義政⇒義尚となったことから、あえて言うなら「東軍の勝ち」とされているが、細川氏が命がけで守ろうとした戦後レジームは内側から壊れていった。まず、守護在京制の崩壊。細川氏に至っても、権力の及ぶ範囲が限定され、庶子家も含めた同族連合体制は無実化してしまった。

1493年、細川政元はクーデターで10代将軍足利義材(義稙)を廃立。(明応の政変。)

1507年、その政元も、家臣の香西元長により暗殺。元長は政元の養子の澄之を新当主にした。(永正の錯乱。)足利義政や細川勝元はおのれの利益のために下剋上の風潮を煽ったが、それによって勢いを増した下剋上の嵐はやがて将軍家や京兆家(細川本家)自身をも飲み込んでいった。

終わり

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