~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【1493年に何があった?】『戦国期足利将軍研究の最前線』(山田康弘編、2020年、山川出版社)

戦国期足利将軍研究の最前線』より読書メモ。第1部:室町時代から戦国時代へ。

§1.「応仁の乱」後、足利将軍家は没落したのか?(小池辰典)

(はじめに)

★応仁の乱後、義尚、義稙とも多くの大名を従えて近江遠征しているため、応仁の乱によって将軍家がただちに没落したとは言えない。

(9代将軍・義尚の近江遠征)

★応仁の乱の最中、近江の六角高頼は将軍直臣の所領をさかんに奪い、返還しなかった。そのため、将軍直臣は怒りを爆発させた。義尚はそれに答える形で自ら兵を率いた。

★当時いた27人の大名中、21人が参加。義尚の軍勢に参加することはそれだけメリットがあると考えられていた。

★義尚は遠征終了後、京都にすぐに帰らず、他国の問題も解決しようとした。それにより父母の影響から脱却できると考えたからだ。

★しかし、京都に戻ることなく25歳の若さで陣没してしまう。

(10代将軍・義稙の近江遠征)

★その2年後から義稙が近江遠征。

★義稙は将軍になるまで美濃国で過ごし、将軍になった後は父・義視が急死、叔母・富子とは仲違いしてしまい、求心力を高める必要があった。

★義尚の時よりも大規模な軍勢で遠征が行われた。六角を退けた後、休む間もなく河内へ遠征、次は越前とも決めていた。

★しかし、これには厭戦気分が蔓延。さらに大名よりも側近が重視されたことで大名たちの不満が蓄積されたため、明応の政変が起きる。

(おわりに)

応仁の乱までは大名たちは原則として京都に住んでいたが、その後は領国に住まいを移した

しかし、近江遠征には多くの大名が参加して将軍の指揮下で戦ったことから、応仁の乱後、ただちに将軍が没落したわけではない

♨遠征には大内政弘、赤松政則、畠山政長、細川政元、山名政豊らが参加している。旧東軍、西軍というのを乗り越えている

§2.戦国時代の扉を開いた「明応の政変」とは?(浜田誠至)

(はじめに)

★1493年、細川政元により将軍の首がすげかえられる。

(「明応の政変」の経緯をたどる)

★元々、細川政元は義稙の将軍就任に反対していた。

★河内遠征で義稙についていた大名たちは退散するなどし、そこへ細川政元が攻め込む。細川方に圧倒されて、義稙側の重臣・畠山政長(1442~1493)は自害。側近の葉室光忠は斬首。義稙は捕縛される。

♨畠山政長は応仁の乱の主役の1人ですね。

★のち、義稙は脱走し、政長の領国であった富山に入る。そこから細川政元征伐の号令を発す。日本列島は2つの勢力に分裂することとなる。

(なぜ細川政元は将軍を廃立したのか?)

★これには2通り。義稙を排除するという説と、義稙の重臣・畠山政長を排除するという説。

(なぜ大名や将軍直臣たちは、細川政元に反対しなかったのか?)

★これには、義稙と直臣の関係が希薄だったこと、富子や伊勢氏が政元支持に回ったから、という説がある。

(政変後の、将軍と細川氏の力関係とは?)

★細川の影響増大。しかし、義澄は細川の傀儡にはならず、独自に裁判を実施し、政務も行い、将軍としての自立性を保っていた。

(おわりに)

明応の政変を戦国時代の始まりとする見方もある。同年、東国では堀越公方が伊勢宗瑞(北条早雲:1432~1519)によって攻略されるという大事件が起きていた。(両者の関係もあるという説が有力視されつつある。♨面白い。)

★そういう面でも1493年は重要な年である。【コチラも:細川氏の動向】【年表