~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

藤原良房に逆らえずに皇太子を第4皇子にした(のちの清和天皇)ことでも知られる文徳天皇。

24歳で即位し、32歳で崩御したため、わずか8年の即位であった。この時代、社会は荒れており、現地勢力が受領を殺す事件も起こった。

六国史5番目の『日本文徳天皇実録』は文字通り文徳天皇の時代だけを扱っているので、それに沿ってここでも文徳天皇だけを紹介したい。

第55代:文徳天皇時代(850年~858年)

【文徳天皇】 827~858。父は仁明天皇。母は藤原冬嗣娘の順子(良房の妹、北家)。父より禅譲して即位。(同年に仁明天皇が死亡しているが譲位が先。)即位後は次の皇太子に紀名虎(きのなとら)の娘・静子の産んだ第一皇子の惟喬親王をたてようとしたが、伯父の藤原良房らの反対にあい、第4皇子、まだ9ヶ月の惟仁親王(後の清和天皇)を立てることとなった。(以後、藤原良房との暗闘は続く。)

天皇は巡幸遊覧を好まず政治に励む一方、『続日本後紀』の編纂も開始したが、病弱で政治の実権を握っていたのは藤原良房であった。32歳で崩御。(あまりに病気がちであったために暗殺説もアリ??)墓は太秦にある。

850 仁明天皇崩御。道康親王即位。文徳天皇となる。藤原北家から天皇
857対馬守の立野正岑の射殺事件

※犯人は郡司富豪層
858文徳天皇32歳で崩御。清和天皇(藤原良房の孫)が9歳で即位。

文徳朝こそ、現地勢力が受領(国司の長官)を殺す時代の幕開けだった。受領が責務を果たせば王臣家の権益を侵害するので、受領は王臣家の敵だ。(中略)王臣家や郡司富裕層にとって、天皇の威光を背負う受領は気に食わない。まして天皇権威が大幅に低下した今、殺すのを我慢する理由さえない。」

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

日本史史上最大の難読人名?清和天皇母の藤原明子の読み方は?

第4皇子、惟仁親王の母親は藤原良房の娘であり、藤原明子。明子と書いて、「あきらけいこ」である。これは知らなければ絶対に読めまい。【日本史のココがダメ!難読字多すぎ

皇太子を誰にするかは祖父にあたる紀名虎と藤原良房が相撲をとって決めたという逸話すらある。(平家物語)

「858年、文徳が没して、日本の君主が政治的人格のない幼帝の清和天皇になった。その空白を衝いて、京では商人が朝廷から離反し始め、これを王臣家が勢力下に取り込んで、京の物流が王臣家の餌場となり果てた。」

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

「商人が自分の意思で王臣家人となったことだ。ボスを排除し税を拒否するため、京の商人は主人として朝廷より王臣家(=ギャング)を選んだ。民は与えられた支配者に従う時代を卒業し、支配者を選ぶ時代になった。」

桃崎有一郎「武士の起源を解きあかす」

この時代は一言で言えば、「天皇の権威低下」。その終着点とも言えるのが、清和天皇という幼帝の即位である。

六国史

ポイントとしては宇多天皇の前で終わっていること。宇多天皇と言えば、菅原道真、菅原道真と言えば、遣唐使廃止。遣唐使廃止で、漢文で日本を伝える必要がなくなったため、宇多天皇以降は書かれていない。【父が子に語る日本史

【名称】【完成】【天皇】【撰者】【書かれた時代】
日本書紀720年元正天皇舎人親王、太安万侶神代~持統天皇
続日本書紀794年
797年
桓武天皇石川名足、淡海三船前:文武~孝謙天皇
後:淳仁~桓武天皇
日本後記840年仁明天皇藤原緒嗣、藤原冬嗣桓武~淳和天皇
続日本後記869年清和天皇藤原良房、藤原良相仁明天皇
日本文徳天皇実録879年陽成天皇藤原基経、藤原是善文徳天皇
日本三代実録901年醍醐天皇藤原時平、菅原道真清和、陽成、光孝天皇

※奈良時代の文献のほとんどは「続日本書紀」と考えておいてOK。

※覚え方としては「日本書紀」⇒「続」⇒「日本後記」⇒「続」。最後の2つは日本+「天皇の名前」+実録。「続日本後記」⇒「文徳天皇実録」で一代ごとにまとめるのかと思いきや、最後の三代(清和、陽成、光孝)はまとめて編纂された。

次章は「幼帝」清和天皇、「ギャング」陽成天皇、「棚ぼた」光孝天皇。