~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「鎌倉後期⑫:1284年」です。

第8代執権・北条時宗が満32歳の若さで夭折しました。

大蒙古軍との戦いに捧げたような一生でした…

以前は「時宗英雄論」が盛んでしたが、

近年では見方が変わってきているようです。

弘安8年(1284年)年表

3/28北条時宗、急病を患う
4/4北条時宗、死去(※1)

※満32歳。
※安達泰盛らは追随して出家。(引退したわけではない。)
4/17北条時村(六波羅探題北方、時村の息子)、鎌倉入りを目指すが三河国で追い返される

※その影響力を恐れられていた。
※貞時の執権就任はスムーズに進んだわけではない。
5/20安達泰盛、「新式目」38か条を発する弘安徳政

※北条一門以外で時宗を最も支えたのは21歳年長の安達泰盛。泰盛は親戚でもある。
※将軍権力の立て直し、得宗家に偏りすぎた所領の回復などを目指した。
※この新式目には生前の時宗も関与しており、泰盛は継承したと言える。
※しかし、かねて対立関係にあった御内人(得宗家被官)・平頼綱とは関係悪化。
※安達泰盛は朝廷ともパイプをもっており、この改革は亀山上皇の改革との連動性が指摘されている。
6/22北条時国(六波羅探題南方、時盛の孫)、鎌倉へ召喚される

※この日、京都を発つ。
※安達泰盛とは遠戚。
7/7北条貞時、執権就任。

※14歳。
8北条時光、佐渡に流される

※時盛の子、時国の叔父。拷問を加えられたのち流される。
※泰盛とは遠戚。
10/3北条時国、誅殺

※常陸国で。平頼綱の命令。
11/13朝廷、20か条からなる制符発令

※安達泰盛の新式目との連動性が指摘。
※亀山上皇37歳、後宇多天皇19歳。
※のちの霜月騒動で亀山上皇も権力を失う。
11鎮西特殊合議訴訟機関設置

※幕府、大友氏らを奉行として鎮西での訴訟にあたらせる
元が樺太に大規模な遠征(~1286)

※1263年、フビライは樺太の少数民族ニヴフを服属させていた。
※そこへ、アイヌが侵攻。少数民族ニヴフはフビライに救援を依頼した。
※1264年からフビライは樺太に兵を送り、アイヌと戦う。
※そして、1284年に大規模な樺太遠征を行った。
※第2次征東行省は廃止。

(※1)北条時宗と安達泰盛

北条時宗は2001年の大河ドラマ主人公となったほどです。(主演は和泉元彌。)

「果断な意志をもって国難に挑んだ救国の英雄」として書かれることが多いのですが、

史料から読み取れる時宗像はむしろ、「穏便な性格ながらも、立場上、国を背負わざるを得ず、懸命に役割を果たそうとした悩み多き凡人」だそうです。

↑2022年、文庫本化されたので買いました。北条時宗に対するイメージは変わりました。
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感想(0件)
時宗どのが救国の英雄ともてはやされたのは、軍国主義時代なんですよねー。
竹崎季長に恩賞を与える場面でも登場した安達泰盛どのは、実に頼りがいがありますね。
徒然草185段に出てくる「乗馬の名手」も泰盛の話だよ。

ひらりと敷居を跳んだ馬を「荒馬すぎる」、敷居にぶつかった馬を「鈍すぎる」として乗らない。

道を知るものはかくも慎重、という話。

竹崎季長
「蒙古襲来絵詞」は泰盛どのへ挽歌です…

ホントは私も霜月騒動で戦うべきだったのかも知れませんが…

旧来は、「御家人代表」vs「得宗家家臣代表」と見られましたが、安達泰盛どのと、平頼綱どのの対立は「執権の次に偉いのは誰か」をめぐる争いでもありました。

御家人の中にも得宗家と主従関係を結んだものも多くいるし、安達泰盛と主従関係を結んだ御家人もいるので、安達泰盛=御家人の代表というように、単純には割り切ることはできません。

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