~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【1185イイハコつくろう鎌倉幕府はもう古い?】『承久の乱』(本郷和人、2019年、文藝春秋)

承久の乱をもって、鎌倉時代開始

それくらい、この戦とその顛末は重要な意味を持っていると思う。

まず、3代将軍・源実朝は従来より「傀儡説」があったが、政所を充実させ、将軍自らによる政治を実現するなど実態は大きな権力を握っていた。

北条義時ができたのは助言程度。

そのうえ、朝廷の秩序を取り戻そうとしていた後鳥羽上皇と密接になっており、実朝自身も積極的に後鳥羽上皇に仕えることで幕府と朝廷の関係が良好になると考えていたので、義時ら御家人にとって、本当に危険な存在となっていた。

そんな中で
1219年、源実朝暗殺が起こり、
1221年には、後鳥羽上皇による北条義時追討命令。

仕掛けたのは朝廷だったが、出足は遅かった。
兵力動員数も圧倒的で幕府軍の勝利に。

後鳥羽上皇は「暗君」ではなかったのだがワンサイドに終わったのは、

いやいや京都大番役をさせられる西国武士と東国武士の「テンションの違い」や、

西国の守護の多くが就任してからの日が浅く、まだ「御家人・武士との関係性が成熟していなかった」

ことなどが考えられる。

以下、読書メモ。

源頼朝の鎌倉入りまで(~1180)

  • 1156 保元の乱。
    • 朝廷内の争いで後白河天皇のブレーンである藤原信西(通憲)は武士を使った。政治に武力行使を持ち込まないと言う平安350年の伝統を破った。
  • 1159 平治の乱。
    • 源義朝および長男・義平、次男・朝長が死す。清盛の継母・池禅尼により三男の頼朝は助かり、比企尼の長女:丹後内侍の夫、安達盛長(1135~1200)が頼朝に仕える。
    • 比企尼の次女は「武蔵随一」河越重頼に嫁ぐ。
    • 三女は伊東祐清と結婚、伊豆時代の頼朝の世話をするが、祐清は平家側で戦死。のち、源氏一門最上席の平賀義信(1143-?)と再婚。
    • 比企尼の次女、三女は頼家の乳母。
    • 平たく言うと、源氏と比企氏はこの時から一心同体。のちの2代将軍頼家は北条家ではなく比企家で育てられた

      その頼家が最も信頼していたのが梶原景時で、1200年、北条時政により謀殺。1203年、比企氏も謀殺される
  • 1179 平清盛が後白河上皇を幽閉。
  • 1180 源頼朝が伊豆で挙兵。
    • 最初は90人あまり。伊豆の目代を討ち取ったが、その後の石橋山の戦で大敗。房総半島に逃げて、千葉氏、上総氏を味方につけ、さらに武蔵国の河越重頼、畠山重忠を従え相模に。
      この時点のメンバーは「コア」となるメンバー。
    • 【河越重頼】
      義経追討に連坐する形で頼朝に攻められ誅殺。
    • 【畠山重忠】(1164-1205)
      男衾三郎のモデルとも言われる。武士の中の武士。
    • 頼朝政権を一言で言うと、「源頼朝とその仲間たち」。

      源氏の序列としては、
      ①将軍
      ②一門(足利、新田)
      ③側近、将軍の親衛隊
      ④一般御家人(畠山、三浦ら駿河、伊豆、相模、武蔵の武士)、名誉ある例外(千葉、小山ら上記四か国圏外)

源頼朝時代(~1199)

  • 1180 源頼朝が鎌倉に入る。事実上の鎌倉幕府成立。
    • 富士川の戦いで平家を破るが、千葉氏、上総氏、三浦義澄らが頼朝の京都行きを阻止。

      東国での新秩序「武士による、武士のための政権」樹立を目標にする。
    • 【三浦義澄】(1127-1200)
      のち13人の合議制に加わる。三浦義村、胤義は息子であるが、承久の乱では敵味方にわかれた。

      「治承・寿永の乱」で戦ったのは源平だけではない。肥後の菊池、伊予の河野、北陸の在庁官人らが単独で反平家に立ち上がった。いずれのケースもまず国衙を攻撃。つまり、「治承・寿永の乱」とは、「在地領主vs朝廷」の戦いであったのではないか。

    • 【三善康信】(1140-1221)
      以仁王の令旨を伝えたのは頼朝の乳母の妹を母に持つ下級貴族、三善康信。 初代の問注所別当(1184~)。承久の乱時のセリフがしびれる。
  • 1181 平清盛が亡くなる。
  • 1183 木曽義仲が京都に入る。 後鳥羽天皇が即位する。
  • 1184 源義経、頼朝に無断で検非違使に就任。
    • 後白河上皇から左衛門少尉の官位を得る。
    • 大内惟義が伊賀国の守護となる。
  • 1185 壇ノ浦の戦いで平家が滅亡する。 源頼朝が全国に守護地頭を置く。
  • 1189 源義経が平泉で殺される。
    • 奥州藤原氏討伐で畠山重忠が先陣を務める。
    • 平家を破った後も頼朝は官位には慎重に対応して朝廷と東国武士の接近を避けるよう努めていたが、義経はそれを全く理解していなかった。つまり、義経は最大の裏切り者。朝廷との距離が最大の課題であった。
  • 1190 源頼朝が権大納言、右近衛大将に任じられるが、翌月辞退。
    • 1189年には按察使への任官を打診されるが辞退。
  • 1192 頼朝が征夷大将軍になる。
  • 1195 頼朝が「大姫入内工作」を始める。
    • 大姫は6歳の時、義仲の長男の許嫁となったが、義仲を討った時に義高も死んだため、心を病んでしまっていた。九条兼実がパイプ役となっていたが、失脚させられ、頼朝と政子は土御門通親と丹後局に翻弄され、莫大な贈り物をさせられている。
    • 最終的に、1197年大姫が病死したことで立ち消え。この頼朝晩年の振る舞いが御家人たちからの求心力低下に?
    • 【九条兼実】(1149-1207)
      藤原本家の出身。後白河法皇には批判的であったが、後白河側近の土御門通親の陰謀で失脚させられる。
  • 1198 後鳥羽天皇が譲位し、院政開始。
    • 決して暗君ではない。有力御家人をスカウトして自分の仲間に。しかし、のちの承久の乱で朝廷軍の中心となるはずだった大内惟義は実朝暗殺後に病没。
  • 1199 1月、頼朝が死亡。頼家が跡を継ぐ。
    • 1196年から1199年は史料が欠落。頼朝暗殺説もある。頼家は吾妻鏡には暗君として書かれるが、実際は大江広元ら文官を引き継いでおり、決して無能なわけではなかった。 

源頼家時代(~1203年)

  • 1199年4月、13人の御家人による合議制開始
    • 【梶原景時】(1140-1200)
      屋島の戦では副官を務め、義経とは対立。頼朝にとって危険な存在となっていた上総広常を暗殺。弁舌に長け、和歌をたしなむ教養人でもあった。初代侍所。11月に鎌倉を追われ、翌年、上洛の途中で襲われて死亡。(ちなみに襲った方の末裔が安芸国の吉川家である。)
    • 13人の合議制… ①文官…大江広元、中原親能、三善康信、二階堂行政 ②頼家に近い御家人…梶原景時、比企能員 ③北条らその他の有力御家人…三浦義澄、八田知家、和田義盛、安達盛長、足立遠元、北条時政・義家
  • 1202 7月、頼家が将軍に就任。
  • 1203 6月、阿野全成が殺される。
    • 妻の父が北条時政。源頼家により謀反の疑いをかけられる。殺害したのは八田知家。)

      ♨平たく言うと、
      比企シンパ(梶原景時、源頼家)vs北条シンパ(阿野全成、源実朝)
  • 1203 7月、頼家が病に倒れる。
    • 西は実朝に、東は頼家息子の一幡のものになるという予定。
  • 1203 9月、比企氏が滅亡する
    • 比企能員は頼家に時政殺害を訴えるが、障子越しに政子に聞かれる。時政は即座に大江広元に面会。比企をおびき寄せ殺害。その勢いで一気に屋敷に攻め込み一幡も殺害。

実朝時代(~1219)

  • 1203年7月、実朝が将軍になり、頼家は伊豆に幽閉。
    • 病から回復した頼家は怒って和田義盛と比企殺害の実行犯である新田忠常に時政追討を命じるが、義盛はすぐに時政に伝え、頼家は政子の計らいで出家させられ伊豆半島の修禅寺に。ここには範頼も幽閉された。新田忠常はもたもたしている間に殺害。
  • 1204 京都で畠山重保(重忠息子)と平賀朝雅が口論。牧氏が怒る。
  • 1205
    • 4月、鎌倉に御家人が集められる。
    • 6月、畠山重保が鎌倉で討たれる。謀叛人を討つと実朝の命があり、重保が駆けつけるが途中で討たれる。
    • 同月、畠山重忠が武蔵国で討たれる。(畠山重忠の乱。)
    • 閏7月、北条時政が平賀朝雅の将軍擁立を企て失脚。以後、義時が実権を握る。「牧氏の乱」とも。

      時政の館にいた実朝を連れ出し、義時の館へ移す。時政は出家、鎌倉追放。そもそも時政は義時を後継者にするつもりはなく、後妻の牧の方との間に生まれた娘の夫の平賀朝雅を後継者にしようと考えていた。牧氏の乱の後、大内惟義(平賀朝雅長男)は伊勢国の守護になる。
    • この頃、「西面の武士」が創設。 後鳥羽上皇の命で「新古今和歌集」が撰ばれる。
  • 1212 鎌倉に大内惟義の使者が送られ、上皇とのやりとりを伝える。 幕府が各国の守護に大番役の派遣を命じる。
  • 1213 5月、和田義盛が討たれる。(和田合戦。)
    • さんざん義時が挑発して、正面対決。この時期は謀略など要らないくらいに北条氏の力が強くなっていた。政所別当に加え、侍所別当も義時が握ることに。
    • 上皇の命で武士を派遣して寺院の争いに介入する。
  • 1214 この頃、実朝が「金槐和歌集」を完成。 上皇の命で在京武士が興福寺の僧兵と戦う。
  • 1216 北条義時が大江広元を介して実朝の官位昇進を諌める。
  • 1217 公暁が鶴岡八幡宮の別当になる。
  • 1218 北条政子が卿二位と面会する。
    • この会談で後鳥羽上皇皇子、卿二位が養育していた冷泉宮頼仁親王、もしくは六条宮雅成親王が4代将軍になることが内定。後鳥羽は鎌倉幕府を自分の支配下におくこと、北条は将軍を武士のヒエラルキーから切り離すことを目指しており、お互い意図していることは異なった。のちの実朝暗殺で後鳥羽が不信感を抱き、立ち消えに。
  • 1219 1月27日、実朝暗殺。同日、実行犯の公暁も殺される。
    • 公暁は三浦義村のもとに使者を送り、「自分こそ関東の長にふさわしい」と伝える。三浦義村は公暁には「速やかにお越しください」と言い、義時には報告。義時はためらうことなく公暁暗殺を指示。
    • 閏2月1日、幕府が後鳥羽上皇に親王下向を求める。上皇は断る。
    • 2月22日、阿野時元が殺される。
      (※阿野全成の嫡男。駿河で城を構えたとの報が入り、義時はすぐ鎮圧に。源氏の直系は根絶やしに。もはや源氏は必要なくなっていた。頼家の次男の僧侶:禅暁も翌年殺害。)

承久の乱(1221年)

  • 5月15日、後鳥羽上皇が北条義時の追討を命じる。官軍が京都守護の伊賀光季を討つ。
    • 当時、京都守護には共に義時と婚姻関係を結ぶ伊賀光季と大江親広がいたが、大江は後鳥羽につき、伊賀はつかなかった。真っ先に伊賀が標的となり、鎌倉に変時を知らせる使者を送った直後に襲撃された。
  • 5月19日、京都から上皇の挙兵の知らせが鎌倉に届く。
    • 三浦義村は弟から後鳥羽軍につくよう促されるが、義時につくことを宣言。北条政子の有名な演説は実は安達景盛。盛長の長男。
  • 5月22日、幕府軍が京都に向かって出陣する。
    • 籠城案もあったが、大江広元が猛反対。政子もこれを支持。最終的に高齢で自宅静養中であった三善康信も「あれこれ議論を重ねるのは愚かな考えで、時間を無駄に使ったのは怠慢だ」として、これを支持して決行。
  • 6月5日、美濃国で幕府軍が官軍を破る。
    • 朝廷軍の行動は遅かった。大内惟信、藤原秀康も早々に退却。
  • 6月8日、後鳥羽上皇は比叡山に逃れ、僧兵を頼りにしようとするが断られる。
  • 6月14日、幕府軍が瀬田、宇治で官軍を破る。
    • 渡河作戦は難航。泰時、息子の時氏に「わが軍は敗北しようとしている。お前は速やかに河を渡り、敵陣に斬り込んで討死しろ」…必死さが伝わる。
  • 6月15日、後鳥羽上皇が幕府に敗北を認める使者を送る。 (※武力放棄。)
  • 7月2日、官軍に加わった御家人が処刑される。
  • 7月9日、仲恭天皇が退位させられる。後堀河天皇が即位。 後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡にそれぞれ流される。
    • 泰時、時房の戦後処理の最大の特徴は徹底した武士の論理による処断。兄弟の一族であったり、後鳥羽側近の貴族も処刑。もっとも大きいのは天皇の配流と退位。
  • 8月、幕府が官軍に加わった武士・公家の所領を没収する。
  • 閏10月、土御門上皇が土佐に流される。 北条泰時は京都・六波羅に滞在し、政務を行う。(六波羅探題の成立。)
    • 北方が泰時、南方に叔父の時房。

1222年~

  • 1224 北条義時が亡くなり、北条泰時が執権になる。
  • 1226 九条頼経が4代将軍になる。
  • 1232 北条泰時が御成敗式目を定める。

追記)

本郷先生の本はすごくわかりやすく、初学者向きであるが、歴史街道2019年6月号【コチラ】の坂井孝一先生の記事を読んで、「ビックリ」した。

承久の乱勃発直前について知りたい人は是非、坂井先生の「承久の乱」(中公新書)も。

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