~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

☞【源義経は武士じゃない?】『義経の東アジア』(小島毅、2010年、トランスビュー)

源義経は「武士じゃない」と考えると一連の行動に納得がいく。
一ノ谷の合戦では「急襲」、屋島の戦では「背後から襲撃」、壇ノ浦の戦では「非戦闘員へ襲撃」。
「何をされるかわからない」ので平家は集団自殺した。

★生粋の京都人である義経が鎌倉武士の言葉が理解できたかも怪しい。
後白河法皇から勝手に官位をもらって頼朝に追われるが、そもそも鎌倉武士に溶け込めていなかったのでは?

★1180年、平重衡による東大寺・興福寺焼き討ち。
この再建事業に勧進が行われていたことと、奥州藤原氏が実際のパトロンであったことを考えると、弁慶の勧進帳は義経のためではなかった?なんて、発想も。

源義経は武士でない?

ちなみに室町時代の「義経記」で義経が神聖化されたが、

「平家物語」において義経は「色白、ちび、出っ歯」。

※これについては、「義経」という名前の人が2人いたために混同してしまったという説もあり。源義経が「戦の天才」であることはたしか。

おまけに生粋の京都人だから、鎌倉武士たちの言葉が理解できたかすら怪しい

室町時代に武士として描かれるようになったため、「武士」と思われているかも知れないが、一連の行動は「義経は武士でない」と考えると納得できるという。

弁慶も武士ではない!

そう考えると、弁慶も「忠義」の人という固定観念を外してみよう。

1180年の最後、平重衡による「東大寺・興福寺焼き討ち」があり、復興事業には醍醐寺の重源(1121~1206)が関わった。

ちなみにあまり知られていないが、重源が85歳で死んだあと、引き継いだのは栄西である。

兎にも角にも「勧進帳」はここからはじまる。

この東大寺再建事業において、奥州平泉の藤原氏は本当にパトロンであった。

日本風儒教を抜きにして考えると、

弁慶が義経を殴ったのは、義経を庇うためではなく、東大寺再建のためで、

源氏の抗争などあずかり知らなかったのでは?

という発想が生まれる。

時代劇における「勧進帳」で、主人公は弁慶で、義経は「バカ殿」の役回り。

これは赤穂事件もそうだが、

バカ殿がいてはじめて「武士道」が成立する。』(井沢元彦氏)

という構図である。

優秀すぎる殿の前では武士道っぷりを発揮できない。

のだ。

近年、義経の評価は急速にダダ下がりであるが、義経を「何をしですかわからない、色白非武士京都人」、弁慶を単なる「東大寺を再建する僧兵」としても、見方が成立する。

他にも、「楠木正成は朱子学を学んで尊王になった」など後世に脚色されたものは多いので、注意して読む必要がある。俗論がまかり通ってはいけない。

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とにかく面白かった。

小島先生の著作は【父が子に語る日本史】、【父が子に語る近現代史】もオススメ。