~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

【試験に役立ちそうなポイント】

★第46代天皇は孝謙天皇(女帝)。「称徳天皇」として再び天皇に就く(第48代)。道鏡を次期天皇に据えようとして一悶着起こしたが、称徳天皇は道鏡を「中継ぎ」と考えていたに過ぎない。(他者の理解が追いつかずに起きた結果が宇佐八幡神託事件。)

★「白村江の戦」は天智天皇が中央集権を狙ったという見方もできる。

★「源実朝」は従来のイメージより強大な権力をもっていた。

★戦に強く、寄付も多かった足利義満の天皇簒奪計画には公家や寺社も賛成的な人が多かった。

推古天皇は「聖徳太子」に補佐されたイメージがあるが、推古天皇こそ経験、実績とも申し分ない女帝。

今号の特集は「天皇と日本史」の謎。

通史(河合敦先生)

まずトップバッターは河合敦先生による通史だけど、これ以上わかりやすい解説はないんじゃないか?というくらいわかりやすかった。

<長い日本の歴史で見ると、天皇が政治の実権を握っていた時期の方が少ないのです。>
 

河合敦「日本史において天皇はいかなる存在だったか」

ここが日本の特殊性かつ面白いところである。

 

古代(倉本一宏先生)

続いては古代史の倉本一宏先生。

面白そうな書籍も多く出されていて話も面白い。【コチラも

推古天皇などと違って皇極天皇は支持基盤が薄く、同様に中大兄皇子も力としては弱かった。

そのような中で中央集権化は難しいので、「戦争を利用した」という説を紹介。

戦後も中大兄は「唐の脅威」を煽り王権を強化したというのだ。

また、旧来、白村江の戦(現在では「百済復興戦争」と呼ばれるようになっている)は無謀な戦とされてきたが、そうでもないのではないか?と言う論だ。

荒山徹先生も著書で旧来の白村江の戦観に疑問を投げかけていたが、戦争の規模はそれなりに大きかったにせよ、ちょっとそういう見方も頭に入れねば。

<さらに邪推すれば、中大兄は、中央集権化の障害となっている豪族たちを戦場に送り込むことで「邪魔者」を排除する意図をもっていたかもしれない。>
 

倉本一宏「律令国家への道」

うーん、面白い。【コチラ:古代史講義戦乱篇も

 続いては壬申の乱について。

大友皇子は母親の位が低く、皇位につけるとは思ってもみなかったそうだ。

最初から大海人皇子の勝利が決まっているような戦だったのと、語り継がれている天智の病床での大王辞退のくだりは当時の風習からして当然だったという。

 【古代史講義戦乱篇:壬申の乱はコチラ

平安・鎌倉時代(坂井孝一先生)

平安・鎌倉を担当するのは坂井孝一先生。

後白河天皇は、なかなか「治天の君」とはなれず、誰がそれを実現してくれるか探し回っていたようなイメージとなった。

つづいて、承久の乱。

これは「目からウロコ」の連続。

後鳥羽上皇が政策転換をもたらしたのは1205年の牧氏事件

本郷先生の「承久の乱」にも描かれていたが、後鳥羽上皇の院近臣でもあった平賀朝雅を将軍にしようとした北条時政が、義時・政子に追放された件である。(朝雅は殺害された。)

自分の部下が、幕府によって勝手に殺害されたことに警戒心を抱き、「西面の武士」創設につながったのではないか、と。

さらに、源実朝暗殺事件に関して、

事件の黒幕として、北条義時や三浦義村の名が挙げられることもあるが、それはあり得ない。実朝の権力は、従来、考えられてきたより強く、また何よりも義時・義村ら首脳部は親王将軍構想に賛同していたからである。

  

坂井孝一「鎌倉幕府打倒ではなかった!?承久の乱を起こした後鳥羽の真意」

実子のいない実朝の後継に後鳥羽の皇子がなるということが決まりかけていたが、これに危機感を抱いた頼家の遺児・公卿による単独犯という考えだ。

ここまで言い切られるとスゴイ。

また、承久の乱で出した院宣はあくまでも「北条義時追放」にある、というのは、史料集を読んでいる人は当然知っている。→【史料集はコチラ!絶賛!!】

幕府はこれに対して情報操作して、「幕府vs朝廷」という構図を作り出したのだ。

北条政子、義時が一枚上手だった。

室町~江戸時代(今谷明先生)

さて、室町・戦国・江戸を担当するのは今谷明先生。これもまた唸る。

まず、足利義満の時代について。

やはり、皇統が途絶える可能性がもっとも高かったのはここであろう。(※道鏡を思い浮かべる人がいるかも知れないが、次の遠山先生の項で、称徳天皇は道鏡はあくまでも中継ぎ天皇と考えていたと考えられることが紹介。)

義満が戦にめっぽう強かったことと、戦争を避けるためにも上のものがより強くあって欲しいという公家や寺社の願い(+金銭)もあって、義満次男の義嗣の天皇即位計画は着々と進行していたのだった。

つづいて、戦国時代。織田信長が正親町天皇による「勅命講和」をとことん利用した話、秀吉も「惣無事令」を天皇の名のもとに命じていることなど紹介。

文禄・慶長の役では、天皇を北京に移すということが表明されたことと、秀吉は渡航寸前までいったが、母親の死亡および、後陽成天皇が「お母さんが亡くなったばかりなので、海を渡ってはいけません」と秀吉の渡航を止めた話は印象的。

関白である秀吉が海を渡らないということは、天皇も海を渡らないということで、これにて北京遷都はなくなった。

今谷先生は正親町天皇の政治力や、官位叙任権、苗字改姓権、フヴォストフ事件で幕府が外交問題を朝廷に相談するなど、要所要所で天皇が重要な役割を果たしてきたことを引き合いに、

<後醍醐天皇から幕末の孝明天皇の間、歴史の教科書に天皇の名はほとんど出てこない。戦後の歴史学が天皇を必要以上に軽視していたからであろう。>

 

今谷明「信長・秀吉・家康との関係はどう変わっていったか」

と。確かに頷ける。いやぁ、奥が深い。

女帝(遠山美都男先生)

そして最後は遠山美都男先生の「古代の女帝はなぜ誕生し、いかに封印されたのか」。

まず、推古天皇に関しては、これまで「聖徳太子が補佐した」的な扱いをされてきたが、何をいわんや、推古天皇は政治的な経験、実績とも申し分ない女帝、と評価。

推古天皇についてはコチラも

2人目の女帝である皇極天皇は初めて生前譲位を断行。

皇極(斉明)天皇についてはコチラも

3人目の女帝である持統天皇は皇太子を制度化。

持統天皇についてはコチラも

このように女帝が要所要所でその後に影響を及ぼすような重要な決定を行ったことを評価。

通説では壬申の乱以降、天武の血統が尊重されたとされているが、

女帝たちは、天武の血統ではなく、敏達に始まる皇統の嫡流であった、天智の血統を護持しようとしたと考えた方が自然なのである。

 

遠山美都男「古代の女帝はなぜ誕生し、いかに封印されたのか」

とのこと。

また、称徳天皇に関しては、道鏡を天皇にしようとしたのはあくまでも「中継ぎ」として考えていたに過ぎないという説。

結果的に実現できなかったが、女帝について考えると、今まで見えなかった歴史の側面が見えてくるという。

元明天皇、元正天皇についてはコチラも

孝謙(称徳)天皇についてはコチラも

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特集の後に長尾剛先生による「方丈記」の話が出ただけど、これもまためちゃくちゃ面白かった。鴨長明には非常に共感。