こんにちは。
本日ご紹介しますのは、「アイヌの真実」(北原モコットゥナシ、2020年、ベスト新書)です。
近年、アニメ「ゴールデンカムイ」や2020年に直木賞をとった「熱源」などでアイヌが耳目を集めています。
さらに2020年7月12日には「ウポポイ」と呼ばれる施設ができ、盛況のようです(予約必須)。
ただ、北海道の歴史を知ると、複雑な気持ちになります。
そもそも、「北海道」という名前は、古代の「畿内七道」を明確に意識しております。
東海道、南海道、西海道に続いての、「北海道」であり、蝦夷地は「征夷」された場所であることを明治新政府はアピールしております。(残りは、東山道、北陸道、山陽道、山陰道)
しかし、そんな都合で勝手に名前を付けられた方は切ないですよね。
さらに、次々と開拓使が入植したことで、アイヌはあっという間にマイノリティに。
そして、土地を奪われ、名前を奪われ、言葉を奪われかけてしまうのです。
そのため、明治後期~大正時代にかけて、日本語を学習したアイヌの子孫たちが「日本語で」言論活動を開始して、アイヌ文化を守る活動を始めました。
とはいえ、事態が急に好転するわけでもなく、その後も開拓民たちに追いやられてしまいます。
その事態が大幅に変わる可能性があったのは、戦後GHQがアイヌに独立を打診したときでしょうか。
(そんな事実があったとは知りませんでした)
この時、アイヌのリーダーは「混乱を避けたい」、「自分たちはアイヌの地位向上のため大戦で奮戦したため、今後の日本国に期待したい」などの理由でGHQの打診を拒否しました。
しかし、なかなか改善されない状況に、後年、独立を拒否したことを悔やんだとも言われます。
もし、このとき、独立していたら…
今の北海道も大好きなだけに複雑なんですよね…。
…ちなみに、過去には「日本は単位民族である」と言ってバッシングを受けた政治家(中曽根康弘、麻生太郎)もいましたが、
2019年4月19日、はじめて法律で「アイヌ民族が先住民族であること」が明言されたとおり、
日本は単一民族ではありません。
…また、現在、北海道を代表する市街地や観光地である札幌、小樽、余市、釧路、十勝、日高、網走、弟子屈、旭川といった土地は、かつてアイヌの先住地でした。
しかし、明治以降、強制移住させられて国のものとなり、市街地化、屯田兵の住居地化などが進められ、今の姿となっております。(北海道大学あたりも彼らが大事にしているサケの遡上エリアでした。)
さらに詳しくは本書で。
アイヌの真実 (ベスト新書) [ 北原モコットゥナシ ]価格:1,430円 (2020/8/1 08:27時点) 感想(0件) |
↓ゴールデンカムイ
ゴールデンカムイ 1-22巻(最新巻含む全巻セット)/野田サトル(著)【後払いOK】価格:13,068円 (2020/8/1 08:31時点) 感想(5件) |
ゴールデンカムイ 1 (ヤングジャンプコミックス) [ 野田サトル ]価格:594円 (2020/8/1 08:31時点) 感想(11件) |
↓熱源
熱源 [ 川越 宗一 ]価格:2,035円 (2020/8/1 08:32時点) 感想(5件) |
【北海道とアイヌの歴史】
【旧石器時代、白滝より黒曜石が産出】 ※白滝産の黒曜石は石器の原料として各地で見つかる。 | |
【続縄文文化の選択】 和人が稲作、金属製品の使用に進む一方、北海道では漁労や狩猟に加え、土器や石器を使用する「続縄文文化」が続いた。 ※一部では交易により金属製品を手に入れていた。 ※続縄文文化でも抜歯などの風習があった。 | |
5c | 【オホーツク文化との対立】 5世紀頃、樺太方面から到来した民族がオホーツク海沿岸に定住。海獣の猟を生業として豚や犬を飼育した。彼らの文化をオホーツク文化と呼ぶが、続縄文文化圏内の人々とはしばし対立した。 ※658年の阿倍比羅夫の粛慎(みしはせ)討伐はこの両者の争いに介入したものと解釈する説もある。(「続縄文文化」の担い手と本州の「中央政府」が共同で「オホーツク文化」の担い手を排除した、という説) ※阿倍比羅夫・・・658年、船団180隻を率いて日本海を北上。アギタ(秋田)、ヌシロ(能代)、津軽を攻略。 ※647年には渟足柵、648年には磐舟柵をたてる。 ※オホーツク文化ではクマを神聖視 ※10世紀ごろ、忽然と姿を消す |
7~13c | 【擦文時代(さつもんじだい)】 刷毛目(はけめ)文様の付いた「擦文式土器」が使用された。この時代は本州との交易が増加。 ※13c以降はアイヌ文化 |
1189 | 【奥州藤原氏滅亡】 ※蝦夷の子孫と考えられている安倍氏の女系子孫である奥州藤原氏が滅亡した後の東北地方は、北条家の家臣であった安藤家が治め、青森県の十三湊はその中心として栄えた。蝦夷地とも交易。 |
1264 | 【樺太アイヌの侵入をギリヤークが元に陳情】 北方のギリヤーク民族が元に「南方のクイが毎年のように侵入して困る」と陳情。おそらくクイとは樺太アイヌのことであろう。彼らは本州との交易拡大に伴い、ワシの尾羽を求めてギリヤークの領地まで侵入していた。 ※文永の役の10年前の出来事である。 |
1297 | 【樺太アイヌと元の戦い開始】 クイ(樺太アイヌ)の瓦英(ワイン)なる人物が軍勢を率いて間宮海峡を越えて元軍と交戦。1305年まではクイ有利。しかし、1308年に降伏する。以後、朝貢することに。 ※元との戦いは九州だけではなかった。 |
14c~ | 【北海道に移住する和人が増加】 道南に十二館が築かれる。アイヌとの諍いも増える。 |
1418 | 【樺太の住民が、明の現地役人に任命】 |
1457 | 【コシャマインの戦い】 背景には和人の進出による蝦夷への圧迫がある。 前年、アイヌ青年が和人の鍛冶屋に注文した小刀の質が悪かったことを訴えたところ、鍛冶屋が激高して刀でアイヌ青年を刺す事件が生じる。これを契機にコシャマインを盟主とした大規模な戦争が勃発した。アイヌは道南十二館を次々と攻略していくが、蠣崎家の客将・武田信広の活躍により敗退。コシャマインも殺害された。ただし、和人の北海道における勢力は縮小した。 ※重要なことはこの戦で蠣崎家が覇権を握ったこと。西端にいたことが幸いした。 ※武田信広が蠣崎家を継承。安藤政季の娘婿となることで正当性も獲得した。 |
1515 | 【蠣崎家とアイヌが和解】 1496年、再建した和人の館が再び陥落。 1515年、武田信広の息子、蠣崎光広が戦いを挑んできたショヤ・コウジ兄弟を講和の席で謀殺。 1529年には光広の嫡男義広も同じ手口でタナサカシを殺害。 これが続いては交易が縮小して双方に利がないとして1551年にようやく和解。 |
1593 | 【豊臣秀吉、蠣崎慶広の蝦夷地支配を認可】 |
1599 | 【蠣崎慶広、松前氏に改名】 |
1604 | 【松前藩が成立。交易独占権を得る。】 松前氏(蠣崎氏が改姓)が家康よりアイヌとの交易独占権を認められる。 ※アイヌとの交易を優位に進めたい松前藩はアイヌと他藩の交易を禁止。和人との交易は商場のみとしたが、そのレートは対等なものではないうえ、数が足りなければ翌年に20倍要求され、拒めば人質をとるなどの非道が横行していた。さらには相次ぐ噴火が鮭の遡上に悪影響を与えたと考えられ、漁獲高も減少。 |
1630頃 | 【商場知行制開始】 <商場知行制> 当時、蝦夷地では米が収穫できなかったため、松前藩はアイヌとの交易地における権利を家臣に与えた。しかし、商場知行制が開始されるとアイヌには不利な条件が重なった。 |
1669 | 【シャクシャインの戦い】 アイヌも東西で分裂しており、シャクシャインらとオニビシらが対立。1668年、オニビシ殺害。遺族が松前藩に武器の支援を要請したが、松前藩は抗争激化を恐れて拒絶した。しかし、遺族の1人が天然痘にかかり病死したことを「和人による毒殺」と考えたアイヌは結託し、1669年から共同で松前藩と戦った。シャクシャインは講和の宴の席で謀殺されたが、交易レートは改善した。松前藩の支配が拡大。 |
1713 | 【ロシアの南下:千島アイヌとロシア人の戦い(@占守島)】 1697年、コサック隊長アトラソフとカムチャッカに漂着した大坂商人の息子・伝兵衛が遭遇したのが最初のロシア人と和人の遭遇である。当時、ロシアは毛皮を求めてカムチャッカ半島を南下しており、最終的に千島列島に至った。 1713年に千島アイヌとロシア人の交戦がおこり、千島アイヌは毛皮の献納が課せられた。 |
1770~72 | 【ウルップ島のアイヌとロシア人の戦い】 |
1778 | 【ロシアが松前藩に交易要求(国後、厚岸)】 シベリア政庁使節団が国後アイヌの首長:ツキノエの案内のもと国後島、厚岸(あつけし)を訪れ松前藩役人に交易を依頼したが、松前藩はこれを拒否。 また、松前藩は幕府の介入を恐れ、この件を隠したが長崎のオランダ人を通じて幕府に伝えられることとなった。 |
1785 | 【蝦夷調査隊】 ロシアの南下を危惧した工藤平助による「赤蝦夷風説考(1783)」を読んだ田沼意次により蝦夷地調査隊が派遣されるも、翌年の田沼意次の失脚で蝦夷開拓路線は中止となった。 【コチラも】 |
1789 | 【クナシリ・メナシの戦い(国後島、北海道東部)】 当時、飛騨の材木商・飛騨屋久兵衛によりアイヌが奴隷のように扱われておりアイヌの鬱憤が溜まっていたことが背景にある。本州では商品作物の肥料として干鰯、〆粕の需要が増加していたため酷使されていた。 和人と接触したアイヌが不審死したことからアイヌは毒殺を疑い蜂起した。アイヌの長老たちの説得により戦いはほどなく収束したが、首謀者37人処刑された。 ※松前藩は飛騨屋の場所請負権を剥奪。 <場所請負人制> 松前藩主や藩士が、運上金の納入を条件に、交易権を商人に委託した制度。商人たちによりアイヌは各漁場などに労働者として組み込まれ、低賃金で長時間労働させられていた。1845年から6度にわたりこの地を訪れた松浦武四郎(伊勢国出身)はその悲惨さを伝えている。 |
1792 | 【ラクスマン来航(根室)】 |
1798 | 【近藤重蔵、最上徳内が択捉島に「大日本恵土呂府」の標識を立てる。】 ※その北のウルップ島以北にはロシア人が住んでいた。アイヌは否応なく日露の国境争奪戦に巻き込まれていく。 |
1799 | 【幕府、東蝦夷地を直轄化】 幕府はロシアとアイヌの結託を恐れて蝦夷地の大半を松前藩から取り上げて、幕領とした。この時期は和人商人の横暴が多少は是正していた。 |
1802 | 【東蝦夷地、正式に天領となる】 ※江戸幕府、東蝦夷地を正式に上知し蝦夷奉行を置く。後に箱館奉行、松前奉行(1807~)名称変更。 |
1806 | 【フヴォストフ事件(国後島など)】 1804年、レザノフが通商目的で長崎に来航。ラクスマンに送られた信牌をもっていたが、幕府は4ヶ月とどめたのちに、「鎖国が祖法」として通商を拒否した。これによりレザノフは日本は少々武力行使しないとわからないと考えるに至り、部下のフヴォストフに指令を出した。フヴォストフたちの前に幕府の守備兵はなすすべなく敗走した。翌年にも襲撃。 【コチラも】 ※樺太南部のクシュコタンをロシアが占拠。 |
1807 | 【幕府、西蝦夷地も直轄化】 ※松前奉行が支配。 |
1809 | 【間宮林蔵、間宮海峡発見】 ※樺太が陸続きでないことが判明。樺太は「北蝦夷地」として「西蝦夷地」から分立。 【コチラも】 |
1811 | 【ゴローニン事件】 ※当時、日露関係は緊張状態であった。そんな折、国後島を訪れ測量をしようとしたゴローニンが捕縛。1813年、高田屋嘉兵衛の尽力もありゴローニンは釈放されるが日露関係が緩和されるのはもう少しのちのこと。 【コチラも】 |
1821 | 【幕府が松前氏に蝦夷地復領。】 ※日露関係緩和、経費増大などによる。 |
1854 | 【日米和親条約】 ※箱館は避難港として開港 |
1855 | 【日露和親条約締結】 日本側全権は大目付格筒井政憲と勘定奉行川路聖謨、ロシア側全権は提督プチャーチン。本条約によって、択捉島とウウップ島の間に国境線が引かれた。樺太は国境を設けず、これまでどおり雑居地とされた。(~1895年) |
1858 | 【日露修好通商条約締結】 ※領事裁判権が認められる。 |
1859 | 【箱館、貿易港として開港。】 幕府はアイヌが異民族であることを隠すために外面の和風化を強要。松前藩はアイヌが日本語を習得することや和人同様の装いをすることを禁止していたが、結果的には文化の保護につながった。 |
1869 | 【箱館戦争終結。蝦夷地は北海道と命名される】 五稜郭の戦いで旧幕府軍が敗退。明治政府は蝦夷に開拓使を設置し、蝦夷地を「北海道」と改名して日本の領土とした。 |
1871 | 【戸籍法制定によりアイヌは平民として日本国民となる】 ※しかし様々な点で差別される。 |
1874 | 【屯田兵開始】 ※入植者は20世紀初頭には100万人となり、アイヌは圧倒的少数となった。 |
1875 | 【樺太千島交換条約】 ※これにより樺太アイヌ800人以上が宗谷に強制移住させられた。翌年には黒田清隆の指示でさらに内陸の対雁に移住。海の民を強制的に陸に住まわせた。こういった強制移住などで慣れない稲作をして餓死したものもいる。 |
1876 | 【場所請負制廃止】 ※アイヌの伝統的猟法は禁止となった。代わって猟銃が貸与される。 |
1884 | 【占守島のアイヌ100人以上、色丹島に強制移住させられる】 ※こうした数々の移住政策によりアイヌが住んでいた土地は官有地となり、和人の市街地や、屯田兵の住居などになる。現在、北海道を代表する市街地や観光地である札幌、小樽、余市、釧路、十勝、日高、網走、弟子屈、旭川といった土地にもアイヌが強制的に故郷を追われた「涙の道」が数多くあるのだ。 |
1886 | 【北海道土地払下規則公布】 |
1896 | 【旭川に第7師団が置かれる】 アイヌも日本兵として徴兵される。彼らは自らの活躍がアイヌの地位向上につながるとして奮闘した。 |
1905 | 【日露戦争に日本が勝利】 ポーツマス条約によって樺太の南半分が日本領となり、1875年北海道に移住した樺太アイヌのうち336人が故郷に戻った。 明治後期から大正にかけては学校教育を受けたアイヌの若者たちが日本語で言論活動を行った時期でもある。 |
1945 | 【戦後、アイヌはGHQより独立を打診】 当時のリーダーが拒否。日本国民として生きていくことを決めたが、のちにこの決断を後悔したという。 |
1972 | 【札幌オリンピック】 |
1986 | 【中曽根康弘首相が「日本は単一民族である」と発言】 これに対してアイヌが抗議活動。 ※近年でも麻生太郎が「日本は単一民族である」と失言。 |
2016 | 【樺太を舞台にしたアニメ「ゴールデンカムイ」が放映開始】 |
2019 | 【「アイヌ民族支援法」可決】 4月19日、はじめて法律で「アイヌ民族が先住民族であること」が明言された。ただ、アイヌの先住権などまだアイヌが納得できる水準には至っていない。 |
2020 | 【アイヌを主人公とした「熱源」が直木賞受賞】 |
https://news.yahoo.co.jp/articles/260fff6f07cd9892b7089f86672bf5910b93c937
https://news.yahoo.co.jp/articles/3d63df919504f1298a737c0ef0c659781130bb2a