~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

宮内庁正倉院事務所保存課技官、佐々田悠先生。奈良時代の政治史は「皇位継承問題」と「藤原氏の台頭」が争点であった。天武・持統の直系は文武、元明、元正、聖武へ継承されるが皇子不足に終始悩まされ、称徳天皇でその血統が途絶える。聖武天皇の外戚となった藤原氏に対して他氏は反発を抱き、皇族を巻き込んだ争乱を起こすが、結果的に失敗し、多くの皇族たちは姿を消した。

729年、長屋王事件

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★729年、謀反を疑われた長屋王は妻子とともに自害した。
★藤原不比等の娘、光明子の立后におそらく長屋王は反対したであろうことから排除されたと考えられる。
★草壁皇子と元明天皇の娘(吉備内親王)を妻に持つ長屋王の家系は聖武天皇よりも高いともされ、しかも多くの皇子に恵まれており、聖武天皇が危機感を抱いた。(聖武天皇は待望の皇子が1歳で夭折)
★近年は、皇子問題の方が大きかったのではないかという見方がされている。

長屋王と藤原麻呂(四男)はご近所さん。本当の仲は?

★長屋王邸宅跡は左京区三条二坊。現在の道路と若干異なるために位置関係はつかみにくいかも知れないが、かなり平城京と近いことはわかる。

★1988年、この地から大量の木簡が発見。

二条二坊は藤原麻呂(藤原四兄弟四男)の家であり、北向かいにあたる。当時の左京長官は藤原麻呂であり、密告されてスピード処理にあたったのは彼であったのではないかと考えられている。
(♨一方、2人は仲良かったという見方も)

740年、藤原広嗣の乱

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★737年の天然痘大流行で藤原四兄弟は全滅。代わりに政権を担った橘諸兄は玄昉、吉備真備といった面々を重用。面白くない藤原広嗣(三男・宇合の息子。当時、大宰少弐。)は反乱を起こした。
★3ヶ月で朝廷側の勝利に終わり、藤原広嗣は斬首となったが、この乱は戦いの詳細が書かれているという点で注目されている。
★ただ、橘諸兄も藤原氏と融和的に政治を行っており、藤原広嗣も藤原氏を代表するような人物ではなく、橘諸兄vs藤原一族という構図は誤りである。

藤原氏の代表は広嗣ではない

★そもそも皇族出身の諸兄は、光明皇后の異父兄妹であり、藤原氏とは融和的に政治を行っていた。聖武天皇と光明子の娘である阿倍内親王が、女性でありながら立太子したのはその一例である。

★藤原広嗣の乱の間、聖武天皇は関東に脱出。以後、五年間、恭仁、紫香楽、難波と転々とする。

★この時期に出世し、のちに橘諸兄と対峙したのは藤原武智麻呂(四兄弟長男)の次男、藤原仲麻呂である。

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