~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

『古代史講義戦乱篇(2019)』より。第1講は527年の磐井の乱。福岡県文化振興課世界遺産室主任技師、大高広和先生。

①継体天皇
②朝鮮半島情勢
③岩戸山古墳

①継体天皇

★第21代雄略天皇により、ヤマト朝廷の影響力は広がったが、第25代武烈天皇で血筋が途絶える。

★越前国にいたオトド王は、応神天皇の五世孫であったことから大伴金村により招かれて継体天皇として即位(当時57歳)。この時が507年。

★即位後、第24代仁賢天皇の娘を皇后とした。

★しかし、即位した場所は大和ではなく樟葉(大阪府枚方市)であった。大和に入ったのは即位後7年後とも20年後とも言われる。すんなり入ることができなかったのは抵抗勢力の反対によるものと考えられている。

★大阪府高槻市にある今城塚古墳が継体天皇の墓と考えられている。それまでの天皇の古墳と異なり、淀川水系に造られた。(※琵琶湖ー淀川であり、出自も琵琶湖と関係が深い。)【コチラも

②朝鮮半島情勢

ヤマト王朝による朝鮮出兵を磐井が妨害した、というのがこの乱である。

★当時、中国は南北朝時代。朝鮮半島では高句麗により百済、新羅が圧迫され、南の加羅諸国への進出を目論んでいた。

百済

★501年に即位した武寧王は佐賀県唐津市で生まれたという伝承をもっている。

★512年、百済からの求めに応じて大伴金村は任那4県(全羅道南西部)を割譲した。

★「割譲」といっても、これらの地域の領有について百済が承認を求めてきて、それを許した、ということが穏当のようである。

★武寧王が523年に死去、聖明王が即位。

★大加耶地方は新羅も狙っており、加耶・新羅の連合軍と、百済・倭の連合軍の争いも生じている(524年)。

★日本書紀によれば、新羅に侵攻された地域の復興のため、近江毛野らが6万の兵を率いて任那に向かったのが、磐井の乱の元である。

③岩戸山古墳

写真はwikipediaより。電気探査により横穴式古墳と判明。

★福岡県南西部の八女市にある。↓↓

★磐井の乱を起こした筑紫造「磐井」の墓とされる。

★磐井は地元では英雄視されている。

★弥生時代より九州北部は日本列島の大陸への玄関口であり、先進的で独立性の高い地域であった。

★岩戸山古墳は全長138m、同時期の古墳としては全国4位、九州では1位の大きさである。(同時代に同規模で君臨した九州の豪族としては沖ノ島での国家的祭祀に関わった玄界灘沿岸部の宗像氏。)

★石製表飾が特徴的であるが、石製表飾は有明首長連合を特徴付けている。しかし、基本的に阿蘇山の噴火によって生成された柔らかく加工しやすい阿蘇溶結凝灰岩が存在する地域に石製表飾が分布しているという地質的条件を踏まえる必要がある。(♨たしかに、熊本県と隣接しており、博多湾より有明海の方が近い

乱の経過(日本書紀)

527年6月新羅に侵攻された加羅の地域を取り戻すため、近江毛野(おうみのけな)らは6万の大軍を率いて任那に向かった。

磐井はかねてから朝廷に反逆しようと機会を狙っており、それを知った新羅は磐井に賄賂を送って、近江毛野の進軍阻止を勧めた。

筑紫造磐井は火・豊の2国にも勢力を伸ばし、高句麗や百済、新羅からの朝貢船を自らの所へ誘い入れるとともに、毛野軍の進路を遮った。
527年8月継体天皇は大伴金村の進言に従い、物部麁鹿火(もののべのあらかい)を将軍に選び、征伐の詔を出す。
528年11月 麁鹿火が磐井を斬る
528年12月磐井の子、筑紫君葛子は殺害されることを恐れて糟屋屯倉を献上

最新研究の結果

★磐井が毛野の進路を遮ることができたのは糟屋という地域を押さえていたから。(ただし、九州北部を全部押さえていたわけではない。)

★糟屋は博多湾東側に位置し、ここを通過しなくては安全な航海ができなかった。

★毛野は磐井の言葉の中で「使者」といわれており、戦をしていたのではなく、外交交渉を行っていたのではないかと考えられている。「6万の大軍」と言うのも潤色であろう。

★本格的な開戦はおそらく物部と。

なぜ、磐井はヤマトに反乱を起こしたのか?

有明首長連合の盟主として九州でも有力な、相対的に自立性の高い地方豪族であった磐井が、継体天皇の即位事情や朝鮮半島情勢への対応に不満を抱き、そこにヤマト王権と対立する新羅からの後押しがあった・・・

★九州の地方豪族は朝鮮半島への派兵の際などにたびたび動員されていた。

★九州地方の各首長は、朝鮮半島の諸勢力と個別に交流していた。

磐井の乱の影響は?

ヤマト王権は磐井を鎮圧してこうした対外的かつ対内的な危機を一旦克服し、地方豪族への支配と列島内での外交権の一元化を進展させた。

★糟屋を皮切りに王権権力による支配が進展した。

★外交交渉機能も王権の統轄下に組み込まれたと考えられる。

★より本格的な中央集権国家形成の動きは663年の白村江の戦以降となるが、磐井の乱も重要なステップの1つである。

磐井の乱その後…

★継体天皇息子の欽明天皇の時代に新羅が任那を征服。【コチラ

★538年が仏教伝来として知られているが、これは百済の聖明王が新羅を警戒しての行動と考えられる。

★蘇我氏と物部氏の間で崇仏論争が起きる。

★大伴金村は任那での失政を咎められて540年に失脚。【コチラ

★大陸では隋が中国統一。(581年)

★崇峻天皇が蘇我馬子に殺害され、推古天皇の時代となったのが592年~。【コチラ

次章は蘇我・物部戦争