こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「敏達、用明、崇峻天皇時代」です。
この時代、仏教の受容をめぐって方針が二転三転します。
最終的に蘇我・物部戦争で蘇我氏側が勝利したことで仏教受容となりました。
しかし、崇峻天皇は蘇我馬子と反目し、暗殺されます。
こののち、推古天皇、蘇我馬子、厩戸皇子(聖徳太子)による政治となります。
大陸では隋が中国を統一しました。
第30代:敏達天皇期(572年~585年)
【敏達天皇】…欽明天皇の第2皇子。推古天皇の夫。仏教排斥をする。
「灼然(いやちこ)なれば、仏法を断(や)めよ」
※いやちこなり・・・ 明白だ。神仏の霊験やご利益などが顕著である。あらたかだ。(学研全訳古語辞典:weblioより)
581 | 隋が中国統一。 朝鮮では百済、高句麗、新羅が争う。 |
第31代:用明天皇期(585年~587年)
【用明天皇】…欽明天皇の第4皇子。聖徳太子の父で、蘇我稲目の孫。崇仏派。病死。
第32代:崇峻天皇期(587年~592年)
【崇峻天皇】…欽明天皇第12皇子。蘇我馬子の政治介入を排除しようと企んだが、逆に殺害されてしまう。馬子にとっては甥。
587 | 河内渋河の戦い 蘇我馬子・聖徳太子らが物部守屋を滅ぼす。崇仏派の勝利。 この時、聖徳太子(14歳)が立てたとされる4つの仏像がのちの四天王寺に。 →【必読!古代史講義戦乱篇:蘇我物部戦争はコチラ!】 |
592 | 崇峻天皇、蘇我馬子に殺害される。 |
【崇峻天皇を暗殺した東漢駒(やまとのあやうじのこま)とは?】
崇峻天皇の殺害役は東漢氏(やまとのあやうじ)の東漢駒と言われております。
東漢氏は渡来系で、始祖は 阿知使主 (あちのおみ)です。
【始祖・阿知使主】
阿知使主は後漢の霊帝の曾孫で、後漢滅亡に際して朝鮮の帯方に移住し、さらに七姓の民とともに日本に渡ったとされております。
教科書を読むと、彼らは技術者的な印象を受けますが、おそらくは政治的亡命であろうと言われております。
文筆に秀でたとも言われます。
【混同しやすい渡来人】
どういうわけか渡来人の祖先については、試験頻出です。
紛らわしいのですが暗記しましょう。
王仁(わに) | 西文氏(かわちのふみうじ)の祖 | 「論語」を伝える |
弓月君(ゆづきのきみ) | 秦氏(はたうじ)の祖 | 養蚕・機織りを伝える |
阿知使主(あちのおみ) | 東漢氏(やまとのあやうじ)の祖 | 記録や文書を管理 |
機織りを伝えたとされる弓月君(ゆづきのきみ)は、始皇帝の子孫とも言われています。
始皇帝が建てた「秦」から来ているのでしょうか、のちに「秦氏」となります。
(一方、後漢皇帝の末裔とされる阿知使主は苗字に「漢」が入ります。)
【コチラも:語呂合わせ】
【蘇我馬子は悪人ではない?】
崇峻天皇暗殺を命じた蘇我馬子でしたが、当時、大きな混乱が見られなかったことより崇峻天皇暗殺は皇族・有力氏族たちの「総意」という見方がされるようになっております。
また、30年前くらいには聖徳太子と仲が悪かったかのように教わりましたが、むしろ協力して政治を行っており、聖徳太子が行ったとされる数々の政策は、馬子の大いに関わっているという見方がされるようになっております。
馬子が眠るとされている石舞台古墳(奈良県)は「横穴式古墳」です。
古墳は出現期(前期)、全盛期(中期)においては竪穴式であるが、後期になると横穴式になります。
ただ、東アジア最高レベルの副葬品が入っていたとされる「藤ノ木古墳」も古墳時代後期ですが、こちらは「円墳」です。 (cf.同じく「円墳」の「高松塚古墳」の成立年代はさらに後で飛鳥時代末期)