こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「古墳時代の前」の話です。
①邪馬台国論争の現在地
②古代出雲にも注目
③古墳から考える古代
【前編はコチラ】
②古代出雲にも注目
近年、とりわけ注目されているのが古代出雲だそうです。
「原の辻=三雲貿易」時代、山陰地域にも半島系土器が持ち込まれていることがわかってきました。(例:出雲市の山持遺跡・・・ざんもちいせき)
九州から出雲の土器が出土したり、出雲から九州の土器が出土しているので、両者が交易していたことは確かでもあります。
さらに、出雲は吉備系の土器、丹後系の土器、近江系の土器、北陸系の土器も出土しており、西日本諸地域と交易していたと考えられます。
「博多湾貿易」の時代には山持遺跡から南に6km離れた「古志本郷(こしほんごう)遺跡」が中心となりました。
この時期の人々は半島とも積極的に交易していたと考えられています。
卑弥呼がいた時代の日本の「中心」は「近畿」か「九州」かという二択で論じられることが多かったのですが、山陰地域も選択肢に加えた方が良いかも知れない。
というのが著者のご意見です。
「丹後王国」にも着目?
また、古代、ヤマト朝廷と肩を並べるほどの「丹後王国」があったという説もあります。
(実際に赤坂今井墳丘墓、網野銚子山古墳などの巨大古墳も存在。)
垂仁天皇(11代)の妃や、景行天皇(12代)の母も丹後王国出身といわれております。
山陰道は出雲と近畿をつなぐルートとして重要であったと考えられておりますが、出雲と丹後の関係がどうだったのかも、今後着目してみたいと思います。
弥生時代後期の日本列島内部でも水と油の関係で、出雲で発達した四隅突出型墳丘墓は丹波を通り越して越前、越中に伝播。かたや丹波は越後と同盟関係を結んでいる。
(「古代朝鮮と日本」関裕二より引用改編)
(↑)こちらは出雲と丹後は「敵国」説。
③古墳から考える古代
【前提知識】
★卑弥呼のいた時代は弥生時代末期。(魏に遣いを送った238年含む)
★卑弥呼の死後、ヤマト朝廷の支配が広がり、推古天皇が即位するまで(592年)が古墳時代。(つまり古墳時代は200年以上に及ぶ)
★4世紀は日本が大陸進出していた時代。好太王率いる騎馬隊と初めて決戦し、以後、古墳の埋葬品に「馬具」が入るようになる。(※「倭の五王」は5世紀。史料が少ないので4世紀は「謎の4世紀」とも呼ばれる。)
「弥生時代的」交易システムの終焉
4世紀はじめ、高句麗の南下と、楽浪郡・帯方郡の滅亡は朝鮮半島情勢に影を落とし、日本列島にも影響を及ぼしました。
博多湾の交易、出雲の交易は衰退し、弥生時代的交易網は終焉となりました。
かわって畿内主導のシステムが構築
かわって、畿内のヤマト王権が半島諸国と直接交渉、交易を行うようになったと考えられております。
実際にこの時期、加耶地域の王墓に畿内勢力との直接的関係を示す遺物が多数確認されております。
福岡県宗像市でヤマト王権による宗像沖ノ島の祭祀が4世紀後半から開始されるようになったのも、その影響と考えられております。【wiki】
また、「箸墓古墳」をはじめとして大型の前方後円墳が天理市、桜井市(奈良県)で作られていることから、この時期、徐々に「国家」が形成されたと考えられております。
→古墳の推移については資料集!【コチラ】
まとめ
★238年(or239年)、卑弥呼が魏に遣いを送ったことが魏志倭人伝に記されている。倭人伝に記される邪馬台国への経路通り行くと太平洋のど真ん中に行き着くことから、さまざまな「邪馬台国論争」が起こった。
★倭人伝ばかりではなく、交易などの観点から推測する姿勢も大事であろう。卑弥呼のいた時代は北九州の「原の辻=三雲貿易」時代から「博多湾貿易時代」への過渡期であり、その後、近畿の王権による中央集権的な交易時代となった。
★4世紀はじめの高句麗の南下、楽浪郡、帯方郡の滅亡が倭国を中央集権的な国家に向かわせた一因と考えられる。
★卑弥呼のいた時代の日本の中心は畿内か九州かと思われがちであるが、出土品の傾向からして古代出雲も選択肢の1つに加えるべきだ。
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