~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

『古代史講義戦乱篇(2019)』より。第2講は587年の「蘇我・物部戦争」。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしたこの戦い、最近は干支に基づき、「丁末(ていび)の役」と呼ばれることが多い。従来、仏教の受容をめぐる争いとして語られてきたが、はたしてそうだろうか。早稲田大学オープンカレッジ講師、加藤謙吉先生。

①物部氏
②蘇我氏
③崇仏論争

①物部氏

★百済の聖明王に一族が仕えており、物部氏は日本人と朝鮮人女性の間に生まれた「韓子(からこ)」と呼ばれる混血児と推察される。(「欽明記」による)

★6世紀前半には外交任務を負っており、仏教公伝に密接に関与していた。

★これらの事実より、物部氏を「排仏派」と位置づけることは強引過ぎる

阿刀氏

★物部氏のもとには現在の大阪府八尾市跡部・渋川地帯を本拠とした阿刀氏がいた。

★彼らは学術、文化的傾向を有し、渡来人との関係も深く、対外交渉や大和川の水上交通にも関与していた。

★この一族から8世紀に玄昉wiki】や善珠、さらには9世紀の空海などを輩出している。(空海の母親が阿刀氏)

★704年に渡来系の西漢氏(かわちのあやうじ)配下の上村主(かみのすぐり)氏が阿刀氏に改姓している記載が見られている。

★物部氏は東漢氏(やまとのあやうじ)や南河内の渡来人と結んだ蘇我氏に対抗して、西漢氏や中河内の渡来人勢力との関係を深めていたと考えられている。

★中・南河内地方では仏教が早い時期から浸透していたことを考えると、物部氏が仏教排斥の主役であったとはやはり考えにくい

「大臣」と「大連」

★6世紀半ばの大和朝廷の政治体制はオホマヘツキミーマヘツキミ制と呼ばれる大勢がとられ、オホマヘツキミは議政官であるマヘツキミ(10人程度)を束ねた。

★「オホマヘツキミ」は「大臣」蘇我馬子と「大連」物部守屋2人が記されている記述があり、「大臣」も「大連」も同じ、「オホマヘツキミ」を指すものとして差し支えない

★「大臣」は「臣」姓を持つ蘇我氏のような在地土豪(姓は地名に由来)、「大連」は「連」姓を持つ大伴氏や物部氏のような伴造(とものみやつこ)系豪族(姓は職能に由来)を出自により分けたものと考えられる。

②蘇我氏

5世紀前半、雄略天皇により葛城地方の在地土豪集団、「大きくまとめて葛城(かずらき)氏」が一掃された。彼らは大王と同程度の軍事力を有していた

雄略天皇の下でこれらの戦で活躍した私兵集団の長が大伴氏や物部氏であったが、継体天皇即位後の混乱により、在地型土豪も政治的に復権の兆しが見られた

蘇我氏は雄略天皇により一掃された葛城地方と縁の深い豪族であると考えられている

★蘇我稲目の代で政界の表舞台に登場した。当事、政治的実験は大伴、物部の二大軍事伴造の手に握られていたが、大伴氏が失脚。(※大伴金村が物部尾輿により。これにより大伴大伴氏は蘇我氏に接近)

★稲目は2人の娘を欽明天皇に嫁がせるなどをして外戚としての地位を得る。一方、伴造は本質的に大王家との通婚は認められていなかったようである。雄略天皇以降の后はいずれも在地型豪族らの子女で占められている。

★マヘツキミに過ぎなかった蘇我氏がオホマヘツキミの物部氏に対抗できた理由としては、
1)大王家との通婚で外戚としての地位を確保したこと
2)他のマヘツキミ勢と連携して物部氏を孤立させたこと
が挙げられる。

③崇仏論争

★蘇我・物部戦争は仏教の受容をめぐる争いとして語られてきたが、
1)日本書紀の記述があまりに類型的で史実とは考えにくいこと
2)仏教の教義に対する理解が未熟であった当事に崇仏・排仏の思想的対立が生じたとは考えにくいこと
などに基づき、これらは後に仏教関係者が行った造作に過ぎないという説がある。(津田左右吉、1947年)

合戦の経過

587年4月用明天皇が新嘗の儀式の最中に突然発病、7日後に死去

※それ以前に物部守屋と欽明天皇息子の1人である穴穂部皇子が結託して用明天皇から王位を簒奪しようとしていた計画があった
。(この際、故・敏達天皇妻の推古天皇が襲撃されそうになったり、故・敏達天皇の寵臣、三輪君逆が殺害されたり。)

※同母弟が崇峻天皇(母は蘇我稲目娘の小姉君)
※異母兄が敏達天皇(母は宣化天皇娘)、用明天皇(母は蘇我稲目娘の 堅塩媛 )


その後の政治体制を決定する会議で物部守屋は完全に孤立
(崇仏論争と言われているが、それが主ではない)


マヘツキミ連合が守屋の退路を断とうとし、守屋が大慌てで跡部地方へ引き上げ兵を集める
※穴穂部王や、物部派のマヘツキミは殺害


物部守屋包囲網が敷かれる中、単独挙兵を余儀なくされる
587年7月蘇我・物部戦争

蘇我馬子は王族やマヘツキミとともに物部守屋討伐軍を編成し、隊を2つにわけて侵攻。
①蘇我馬子、のちの崇峻天皇、聖徳太子ら王族軍、紀男麻呂らマヘツキミ
②大伴、阿倍、平群らマヘツキミ
二手に分けて物部氏が瀬戸内海方面に逃げるのを防いだとも。

一方、物部氏は一族と私有の奴で構成された私兵に過ぎず、戦は蘇我軍の圧勝。

合戦後の政治体制

日本書紀ではこの戦を宗教戦争と位置づけ、これにより仏法興隆の道が開けたように描くが、実態はマヘツキミ勢力を巻き込んだ蘇我・物部氏の政治抗争であり、この結果、蘇我氏一族をオホマヘツキミーマヘツキミ合議体の指導者とする新たな政治体制が確立することになった

wikipediaより、物部守屋。

585年敏達天皇崩御後、物部守屋を味方につけた穴穂部皇子がのちの推古天皇を襲撃しようとしたり、敏達天皇寵臣を殺害するなどを起こした混乱に対して、

馬子「天下の乱は遠からず来るであろう」
守屋「汝のような小臣の知る事にあらず

(軍事伴造であった物部守屋にとっては、馬子は「小臣」と罵れる存在であり、この時点における両者の地位は蘇我<<物部であった)

before 推古天皇の時代 コチラも

次章は「乙巳の変」。