~「もう一つ上の日本史」出版に伴い、勉強方法も変える必要が出たので、全面改訂突入します~

飛鳥時代の略年表を記す。一般的には推古天皇からが飛鳥時代と言われているので、推古天皇以前は「古墳時代」という括りになる。しかし、古墳時代というととてつもなく長い時代になってしまうので、ここでは飛鳥時代前夜ということで、「その0」としている。この時代に東アジア情勢の変動から仏教伝来が起こり、日本史に新たな軸が加わった。

第29代:欽明天皇期(539年~571年)

【欽明天皇】…第26代天皇である継体天皇皇子。この時代に、新羅の台頭により任那日本府がつぶれた。仏教伝来も彼の時代。

継体天皇についてはコチラも。墓は高槻市。

超絶面白いのは茂木誠先生の超日本史

538 or 552 仏教伝来

★日本書紀に拠れば552年であるが、現在では538年が有力。

仏教伝来は日本の宗教史において最大の事件であろう。

新羅が任那を滅ぼしたことで、危機感を覚えた百済の聖明王がヤマトに仏像と経典を送った

仏教(=百済)の認可をめぐって、蘇我稲目(仏教派)vs物部尾輿(神道派)の争い(崇仏論争)となる

最初は物部優勢であったが稲目の息子・馬子、尾輿の息子・守屋の代で逆転。稲目の娘2人が欽明天皇に嫁ぎ、その子が用明天皇(31代)、崇峻天皇(32代)、推古天皇(33代)である。

※ただし、用明天皇は早世、崇峻天皇は馬子と反目して殺害される。

one more:540年の大伴金村

大伴金村は継体天皇を越前から迎え入れた豪族であり、磐井の乱(527年)鎮圧指導など(この時の将軍は物部麁鹿火:もののべのあらかい)を行う。しかし、540年、任那での失敗を糾弾される形で失脚したと言われている。

第30代:敏達天皇期(572年~585年)

【敏達天皇】…欽明天皇の第2皇子。推古天皇の夫。仏教排斥をする

「灼然(いやちこ)なれば、仏法を断(や)めよ」

581 が中国統一。朝鮮では百済、高句麗、新羅が争う。

※いやちこなり・・・ 明白だ。神仏の霊験やご利益などが顕著である。あらたかだ。(学研全訳古語辞典:weblioより)

第31代:用明天皇期(585年~587年)

【用明天皇】…欽明天皇の第4皇子。聖徳太子の父で、蘇我稲目の孫。崇仏派。

第32代:崇峻天皇期(587年~592年)

【崇峻天皇】…欽明天皇第12皇子。蘇我馬子にとっては甥にあたる。蘇我馬子の政治介入に対して馬子を除こうと思ったが、逆に殺害されてしまう。

587 河内渋河の戦い

蘇我馬子・聖徳太子らが物部守屋を滅ぼす。この時、聖徳太子14歳。4つの仏像を立て、勝利。これがのちの四天王寺に。仏教派の勝利。

→【必読!古代史講義戦乱篇:蘇我物部戦争はコチラ!
592 崇峻天皇、蘇我馬子に殺害される

※実際に殺害したのは東漢氏(やまとのあやうじ)の東漢駒。渡来系。始祖は 阿知使主 (あちのおみ)。文筆に秀でたと言われる。

また、阿知使主は後漢の霊帝の曾孫で,後漢の滅亡に際して朝鮮の帯方に移住し、さらに七姓の民とともに日本に渡ったとされる。

教科書を読むと、彼らは技術者的な印象を受けるが、おそらくは政治的亡命であろう

one more:弓月君は?

機織りを伝えたのは弓月君(ゆづきのきみ)。秦氏の先祖。 弓月君は始皇帝の子孫とも言われている。

渡来人とその祖先

王仁(わに)西文氏(かわちのふみうじ)の祖「論語」を伝える
弓月君(ゆづきのきみ)秦氏(はたうじ)の祖養蚕・機織りを伝える
阿知使主(あちのおみ)東漢氏(やまとのあやうじ)の祖記録や文書を管理

コチラも:語呂合わせ】

蘇我馬子

墓は奈良県の石舞台古墳と言われている。(↑写真はwikipediaより)

横穴式古墳。横穴式といえば後期古墳時代のものである。

古墳は出現期(前期)、全盛期(中期)においては竪穴式であるが、古墳出現期のものとしては「箸墓古墳」などで、 古墳全盛期のものといえば、大仙稜古墳(以前は仁徳天皇稜と呼ばれた)、稲荷山古墳(埼玉)、江田船山古墳(熊本)などが挙げられる。前方後円墳の終焉と共に埴輪も消失した。

東アジア最高レベルの副葬品が入っていたとされる藤ノ木古墳も古墳時代後期にあたる。こちらは円墳。 (cf.高松塚古墳も円墳であるが、こちらの成立年代はさらに後で飛鳥時代末期)

石舞台古墳の主と言われる蘇我馬子は中臣鎌足息子・不比等のおかげで悪いイメージが植えつけられてしまっているが、聖徳太子がやったとされる数々の偉業に関わっていないはずがない。合掌。

次章は推古天皇時代