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☞【共謀などしてない】『939年、平将門の乱・藤原純友の乱』(古代史講義戦乱篇⑭b)

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「939年、平将門の乱・藤原純友の乱」(天慶年間編)です。

戦前は「天慶の乱」と呼ばれていたのですが、

戦後に「承平・天慶の乱」と呼称がついて、

今、再び、「天慶の乱」という呼称に舞い戻ったんですって。

藤原純友は承平年間、「海賊を取り締まる側だった」のですが、文献によって異なったために呼称が変遷したそうですが、やはり承平年間は「海賊を取り締まる側だった」と結論付けられました。

古代史講義:コチラも

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③天慶の乱

③天慶の乱

938年以降の全国的な騒乱

天慶年間は938年から947年のことを言います。

天皇は承平年間に引き続き、朱雀天皇からスタートし、946年に弟の村上天皇に引き継がれます。

この時期、自然災害と天候不順により、各地で群盗・海賊の活動が盛んでした。

938年4月に京都で大地震が起こると、5月には鴨川氾濫が起きました。

東国では「橘近安の乱」(武蔵)や、「平将武の乱」(伊豆)などが起きました。

939年になると、旱魃のため米価が上昇し、

京では群盗が多数現れました。

東国でも群盗活動が盛んだったので、6月には相模、武蔵、上野に押領司が置かれました。

8月には尾張国守が射殺されるなどの事件も起きています。

出羽国では4月に俘囚が反乱し、

瀬戸内海では海賊の活動が再活発化しました。

このような中で将門、純友の乱が起きました。

直接的な原因は明らかになっていませんが、2人に限らずとも背景に全国的な騒乱があったことは確かです。

天慶の乱 略年表

939年11月21日将門が常陸国府を攻略する
939年12月将門が坂東諸国を支配下に置く(※1)
939年12月26日純友の部下が備前介藤原子高らを摂津国芦屋駅で襲う
940年1月1日東海・東山・山陽道追捕使を任ずる(※2)
940年1月19日藤原忠文を征東大将軍に任じる
940年1月30日純友を従五位下に叙することを奏上する
940年2月14日将門が平貞盛・藤原秀郷によって討たれる
940年3月2日純友から悦を申す状が届く
940年8月26日伊予・讃岐国が純友の賊船400余艘に襲われ、備前・備後の兵船が焼かれたとの知らせが届く(※3)
940年10月22日大宰府追捕使在原相安が賊に敗れたとの知らせが届く
940年11月7日周防国鋳銭司が賊のために焼かれたとの知らせが届く
940年12月19日土佐国幡多郡が海賊に襲われたとの知らせが届く
941年5月20日政府軍が純友軍を博多津で破る
941年6月20日純友が伊予国で警固使橘遠保によって討たれる

(※1)常陸国の次は下野国。次々と国府を落とした。

(※2)政府は東西同時の蜂起に驚く。純友は懐柔することにして、甥の明方を遣いに渡す。

(※3)純友が本格的に動き出したのは8月。「将門・純友共謀説」は古くから唱えられてきたが、脚色。もし共謀していたら、将門が大暴れている時期に純友は伊予国で休んでいたりなどしないであろう。

【まとめ】

平将門→承平年間は一族同士の争いにとどまっていたが、天慶年間は次々と国府を攻撃。しかし、940年2月、藤原秀郷により討たれる。

藤原純友→940年1月に蜂起したが、本格的に動き出したのは将門が死んだ後の940年8月。将門との共謀説は否定的。一時期は大宰府を焼くまで暴れたが、941年6月、橘遠保により討たれる。

将門、純友の2人がクローズアップされているが、当時は全国的に騒乱が起きていた。

当時、関東平野は今よりも河川の領域が広く、将門も船で移動したのではないかと言われております。

平将門の乱は朱雀天皇時期:コチラも

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