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☞【南北朝時代第3期⑧:1375年】『水島の陣、少弐冬資、誅殺される!』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第3期⑧:1375年」です。

大内義弘は父・弘世と異なり、今川了俊とともに九州で戦い武功をあげました。

そして、今川軍は島津氏久も味方につけることに成功したのですが、

その目の前で少弐冬資を誅殺したことで島津氏久は「こんな大将にはついていけない」と離脱してしまいました。

一方、畿内では南朝から北朝に好条件で寝返った橋本正督が反乱を起こしたことで、彼の同族である楠木正儀、彼を引き入れた細川頼之は諸将の反感を買う結果となりました。

応安8年→永和1年/文中4年→天授1年(1375年)年表

2/27北朝、永和に改元

■後円融天皇即位に伴い
3/3筑前世振山の合戦

★今川了俊は配下の武将を多く失いながらも、大内義弘(自国へ帰ってしまった大内弘世の息子)の活躍で菊池、松浦、千葉連合軍を打ち破る。
3/18後円融天皇の親政が正式に開始

★2/21に、鬼間議定始、3/18に御前議定始と記録所始が執り行われ、後円融親政が正式に開始した。ところが、後円融親政においては、公家政権が行ってきた訴訟制度の整備や商工業者への課税といった、実質的な政務が急速に衰退した。さらに、朝儀の廃絶も著しく、寺社からの嗷訴も頻繁に起こり、北朝は政務・朝儀の停滞に陥った
★こうした北朝の危機を受けて、良基は義満に期待し、朝儀の作法を伝授し始めた

【鬼間】…京都御所の清涼殿の南西隅にある。裏鬼門にあたる。
5/27南朝、天授に改元

(理由不明)
7/12今川了俊、肥後の水島(熊本県菊池市)に陣を構える

★懐良親王や菊池氏の本拠地(肥後)に入って南朝を圧迫。
8/11島津氏久、水島に参陣。今川了俊と対面

★今川は所領安堵の推薦状などを幕府に送るなどして、島津氏らを味方に取り込むことに成功した。

【島津氏久】(1328-87)
島津氏6代当主。
8/橋本正督の乱(1)

■楠木氏一族の橋本正督も楠木正儀同様北朝に寝返り、楠木正儀の北朝内での立場は保たれた。また正儀を支持していた細川頼之のメンツも保たれた。しかし、正督は、反乱を起こす。

※北朝諸将の怒りは爆発し、足利義満により楠木正儀は和泉守護と摂津国住吉郡守護を、細川頼之の親族、細川業秀は紀伊守護を解任された。
※1379年の細川頼之の遠因ともなる。
8/26少弐冬資、水島の陣にて誅殺される

■水島の陣に少弐冬資も呼ばれた。そこで、今川了俊と酒宴。そのさなか、山内という武士が突然、少弐冬資に襲いかかり、今川了俊の弟、頼泰が冬資を刺殺した。あっという間の事件であった。

これを見た島津氏久はこんな大将には従えないと絶好宣言して陣を離れる

【その後の少弐家】
弟の頼澄が継ぎ、南朝と手を組み、今川了俊と戦うことに。頼澄の代では弱体化していたが、その息子・貞頼の代では勢力を盛り返す。

※「水島の変」の伏線として、少弐冬資は寺社への侵入を繰り返しており、今川了俊に咎められていた。領土拡大を狙う少弐に対して、今川は肥前を直轄領にしたかったため両者は最初から方向性が違った。
※水島の陣に少弐冬資を呼ぶ役を今川了俊より任されたのは島津氏久。せっかく説得して呼んだのに殺されてしまってはメンツが立たない。
11/2橋本正督の乱(2)

※11/2にも反乱を起こす。
今川了俊
大内弘世は所詮は南朝の人間だったか…
大内義弘
今川了俊どの!私は父とは違います!

九州の平和を願って引き続き参戦いたしますぞ!

今川了俊
おお、なんとも頼もしい若武者よ。
大内義弘
しかし、今川どの、水島の陣の件はやりすぎだったんじゃないかと…
今川了俊
う、うん…。遅かれ早かれ少弐は寝返るだろうと思っていたけど…、

せっかく味方についてくれたと思った島津どのが怒って帰ってしまうとはな…。

細川頼之
こっちはこっちで大変よ。

やっぱりいつの世も悩まされるのは人間関係よね。

楠木正儀
橋本はん、、、

北朝に高待遇で入って最初はあんなに喜んでいたのに…

私はもう立つ瀬がないですよ…