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☞【南北朝時代第3期⑩:1377年】『九州で北朝優位が確定!』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第3期⑩:1377年」です。

九州戦線は大内義弘・満弘兄弟の活躍もあり、北朝優位が確定しました。

京都では斯波義将と細川頼之があわや合戦となりましたが、足利義満がうまく収めました。

永和3年/天授3年(1377年)年表

1/13肥前蜷打(になうち)の戦い

★現在の佐賀市高木瀬町。
★前年、水島で今川軍を打ち破った菊池武朝(15)が懐良親王の甥にあたる良成親王とともに再び今川軍を迎え撃つ。しかし、今川軍は大内義弘・満弘兄弟などの活躍により、菊池武朝は一族の菊池武義(菊池武光の弟)、武安(菊池武光の兄である菊池武澄の子)、阿蘇惟武(菊池武光と共闘した阿蘇惟澄の次男)などを失う。

※【大内満弘】(-1397)。大内義弘の弟。1380年に兄・義弘と内戦を起こしているが、その黒幕は父親の大内弘世と見られる。父の死により内戦終結。のち北九州で菊池武朝、少弐貞頼と合戦して討死。死んでも恩賞がなかったことが兄・大内義弘による「応永の乱」の遠因となる。
1/14播磨矢野荘の百姓、大規模に逃散して代官(寺官)祐尊の罷免を東寺に要求

★現在の兵庫県相生市。
★領主は東寺。1353年より祐尊という人物が代官となり赴任して現地を取り仕切っていた。
★当時、守護勢力に兵糧米を要求されたり、百姓を軍陣に動員されたり、様々な名目で仕事を課されたりすることなどが問題であったが、祐尊なる人物は守護勢力と個人的に関係を築き、うまくやっているように見えた。
★しかし、統治が長くなるにつれて祐尊が自分の名田を増やし、百姓にもつらく当たることが多くなったことで関係が悪化してしまっていた。
3/今川満範軍、簑原で島津氏久と戦闘

★現在の宮崎県都城市。
★都城に入った今川満範に対して、島津氏久が救援に駆けつけて戦闘。
6/-斯波義将と細川頼之が対立

★斯波義将(越中守護)の越中守護代が現地の武士とトラブルが生じ合戦となる。
★戦いに敗れた武士たちは太田保(現:富山市上新川郡大山町)に逃げ込むが、守護代の軍勢が乱入して荘園を焼き払うが、そこは細川頼之の所領であった。
★これを聞いた細川頼之が激怒。京都にいた細川頼之と斯波義将の関係が険悪になり、各大名もどちらかに与し、一触触発の状態になる。
8/11足利義満、斯波義将と細川頼之の対立をおさめる

★義満は大名たちに使者を送り、物騒なことになっていることを叱責。これが功を奏して斯波義将と細川頼之の合戦は回避できた。
★義満は当時20歳。徐々にリーダーシップをとっていく。

※ただ、のちの「康暦の政変」で細川頼之が失脚した後に管領に就任するのは斯波義将。
8/12肥後臼間白木原の戦い

★現在の熊本県玉名郡南関町。
★南朝として戦っていた稙田宮(わさたのみや)は今川頼康(了俊弟)・大内義弘ら幕府軍に敗北して自害。
★やはり大内義弘の活躍は突出していたようである。
12/2播磨矢野荘、35人の百姓が籠舎に入れられる

★祐尊の一味が悪党を率いて百姓の会合を襲撃。
★このままでは百姓の縁者が籠舎に来て刃傷沙汰になりそうとのことで東寺もついに祐尊を罷免。

※しかし、次に代官として送られてきた明済もそれなりの実績をあげたものの百姓との関係構築は難しく、のちに弾劾される。
大内義弘
これで北朝優位は決定だろう!
菊池武朝
ぐ…、いつかこの借りは返す!
細川頼之
キーーーーー!!

斯波義将、前から気に食わんかったけど、今度こそやったる

斯波義将
それはこっちのセリフよ!!

望むところだ!!

 
足利義満
おいっ!お前ら、いい加減にしろよ!

まだ南朝も倒せてないのに私闘するなどもってのほかだ!