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☞【南北朝時代第3期⑭:1381年】『足利義満、花の御所で盛大な祝宴!』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第3期⑭:1381年」です。

足利義満は完成した「花の御所」に後円融天皇を招き、盛大な祝宴を開きました。

義満は満天下にその威光を知らしめます。

一方、細川頼之の弟、細川頼元を京都に呼び寄せ、管領・斯波義将への牽制も行います。

康暦3年→永徳元年/天授7→弘和元年(1381年)年表

1/11加賀局、義満の子を出産

★義満にとっては初めての男児であり、義満は大いに喜ぶが、加賀局がつい先ごろまで他人の妻であったこと、また正室の日野業子に対する遠慮もあって、この男児はあくまで庶子として扱われることになる。

【加賀局】箏の名手。中山親雅の妻であったが、足利義満に見初められて側室となる。
2/10南朝、弘和に改元

★革命年である辛酉(かのととり/しんゆう)の干支にあたるため
2/24北朝、永徳に改元

★革命年である辛酉(かのととり/しんゆう)の干支にあたるため
3/11後円融天皇、室町第(「花の御所)」に行幸

★6日間にもわたる盛大なセレモニー。
★11日:後円融が廷臣らを従えて室町第に入り義満に天盃を与える
★12日:舞御覧
★13日:三席御会
★14日:蹴鞠の会と歌会
★15日:蹴鞠の会および舟遊びに詩歌管絃
★16日:臨時の叙位。

従一位:日野宣子(日野業子のおば、宮中で絶大なる権威)
従一位:渋川幸子(足利義詮正室、足利義満養母として義満の後見人となる)
従二位:紀良子(足利義詮側室、足利義満生母)
従二位:日野業子(足利義満正室)

皇居をはるかに凌駕する壮麗な邸宅で行われ、室町幕府および将軍の権威を満天下に見せ付ける一大イベントだった。
6/2康暦の内戦、和議

★義弘と満弘が和解。
★義弘は家督と周防・長門・豊前の守護職を、満弘は石見守護職を得る。

※実質的には義弘が石見も統治していたとする説も。
6/5細川頼元、上洛

★細川頼元、自邸に義満を招き、赦免を感謝する宴を催す。
★管領の斯波義将、山名時義・氏清ら細川氏の政敵らも出席し、さらに業子の兄弟の公家・日野資康、資教らの面々も顔をそろえ、表面上は細川家との和解がなされた。
7/23足利義満、内大臣昇格

★義満はさらに高頻度で朝廷行事に参加し、驚くべき速さで作法を習熟していった
★例として、白馬節会(あおうまのせちえ)の進行を司る内弁では、その作法が「天性の才能」と評され、最終的に19回も行った
★ただ、同じ熱心さを廷臣すべてに求め、遅刻および怠慢を徹底的に弾圧した
★こうした強硬な態度が取れた理由は「武家執奏」ができたことが強みであった
8/12三条公忠(後円融天皇義父)、足利義満に四条坊門の土地をおねだり

★ただ、「京都の地の事、公家御計なり」という原則のため義満は「推薦」という形で武家執奏を行う。
★これを受けた後円融天皇は自身の権限が侵害されたことに立腹し、数日返答を延ばしたのち、却下した。

★翌月、後円融は一転して要求を受け入れて綸旨を発したものの、妻の厳子に対しては「口もきかず顔も見たくない」として追放。
★そのため公忠は慌てて四条坊門の土地を返却し、後円融も埋め合わせに代わりの土地を公忠に与えることで事件はとりあえず落着した。
9/後円融天皇の勅裁延引により義満が激怒

★右近庁頭に中原職富を補すように義満が武家執奏を行ったが、後円融の返事が大幅に遅れたため義満が激怒し、それを聞いた後円融が慌てて勅裁を下す。

■後円融天皇の評価は時代とともに変化したが、現在では、「やるべきことをちゃんとやらない人。そのくせ癇癪を起こす」というような評価がなされている。
9/16斯波義将、管領辞職の意向を示す

★足利義満は細川頼元をしばしば同行させたため、斯波義将が牽制行動に出る。
★義満は義将邸に自ら赴いてこれを慰留し、「頼之を復権させることはない」と確約して義将の辞意を撤回させた。
10/宗良親王の「新葉和歌集」が准勅撰集となる

★長慶天皇、宗良親王の私撰和歌集である「新葉和歌集」を准勅撰集とした。
★また、同年、『源氏物語』の注釈書である『仙源抄』を著している。
11/15細川家と河野家の会談

★細川頼之、伊予・和気郡福角に赴き、河野氏側との和議の会談に臨む。
★河野氏側の代表は戦死した河野通直の次男の鬼王丸。
★結果、伊予守護職および伊予の主要地である西部は河野氏のものとし、伊予東部の宇摩・新居両郡は細川家の所領とすることで合意。
★長年にわたる細川・河野の確執は一応の終結を迎え、鬼王丸はのちに義満の仲介で頼之と父子の契りを結び、頼之の一字をとって「通之」と名乗ることになる。
11/30後円融天皇、譲位の意向を示す

★後円融天皇(25)、子の幹仁(もとひと)親王(5)に皇位を譲り、上皇になりたい旨を義満に伝える
★義満は即答を避ける
12/24足利義満、幹仁親王への譲位を承諾

★義満と後円融の会談は密室で行われており、後円融は公の場で明言して欲しかったため、その後も何度も義満に確認を迫る。
★後円融天皇は叔父にあたる崇光天皇の一族(いとこにあたる伏見宮栄仁親王ら)の動向を恐れていた。
足利義満
え?加賀局さんの件?

まあ、人はあれこれ言うけど、ちゃんと最後まで面倒見てるんだって。

っていうか、側室なんて明治以前は当然だし、何か悪い?相手も僕のこと好きなんだし。

問題は人妻だったことくらいでしょ。

それより、後円融天皇、今回の行幸はいかがですか??

後円融天皇
あー、すごいねーー

(しかし、同学年で、いとこと言うのに。しかも私は天皇だと言うのに…。ああ惨め…。)

大内義弘
大内家で争ってる場合ではない!満弘、いいな!
斯波義将
義満さま!なんであんな細川頼元なんか呼び寄せてるんですか!
後円融天皇
もう嫌になった。
足利義満
ふぅ。まったく。

今後、宮廷行事に積極的に参加しない奴は干すかな、

それと斯波くんは牽制しているつもりだろうけど、牽制されているのわからないのかな。

まあいい、細川と河野の和談も順調に進んでいるみたいだし。

細川頼之
鬼王丸…。動乱のためとはいえ、敵となっていたが、いい奴ではないか。

子のいない私にとっては子のようなものだ。