~只今、全面改訂中~

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第2期㉟:1367年」です。

「貞治の変」で斯波高経が失脚して幕政が不安定なまま、

足利基氏、足利義詮が相次いで若くして病死するという一大事が襲いかかります。

激震に見舞われた室町幕府に、新たな管領として細川頼之が就任しました。

貞治6年/正平22年(1366年)年表

3/-足利基氏、この頃から体調すぐれず

※「はしか」にか感染した様子
4/-南朝、北朝、あわや開戦

※南朝、北朝は和平交渉が進められていたが、南朝の交渉役代表であった公家の洞院実盛が、「北朝の降伏」という形式に拘ったために将軍義詮が激怒。あわや開戦となった。
※南朝は交渉役を楠木正儀に交代する
4/26初代鎌倉公方・足利基氏、死去

※享年28歳。
※後世にも語り継がれる人格者であったとされる
5/26桃井直常、北朝帰順

※一貫して直義党として活動していた桃井直常は、当時、足利基氏のもとにいた
※基氏死去に伴い、出家していた
※姻戚関係にある佐々木道誉が北朝に手引した可能性
※ただし、1368年に再び軍事行動を起こす
5/29足利氏満(金王丸)、2代目鎌倉公方就任

※幼少のため、京都から佐々木道誉が下向して政務に携わる
※この頃は鎌倉府が世襲になるとはまだ確定していなかった可能性
7/13斯波高経、病死

※失脚した斯波高経は杣山城(福井県南越前町)に籠城して幕府軍と戦っていたが、病死。享年63。
※高経の死後、息子の義将らは幕府に復帰
7/-上杉憲顕、上洛

※東西での調整が図られる
8/30斯波義将上洛、義詮の赦免を受ける
9/7細川頼之、上洛

※状態の悪かった将軍義詮は四国を安定して経営している細川頼之に注目。義満の後見を託すべく呼び寄せた
11/25将軍義詮、息子の義満に政務を委譲

※死期を悟った義詮は、義満に政務を委譲し、細川頼之を管領として義満の後見・教導を託した。当時、義満10歳。
12/3足利義満、正五位下・左頭頭を叙任される
12/7足利義詮、死去

※足利義満、10歳にして家督を継ぐ
※当時、南朝は和平派の楠木正儀を交渉役として和平交渉を進めていたが、さらに翌年、後村上天皇(南朝)が崩御することで和平交渉が自然消滅、その後、明徳の和約まで25年間、和平交渉は再開されず
※佐々木道誉、京都へ戻る
-/-河越直重、1367年までは相模守護

※相模国守護は薩埵山体制を支えていた河越直重が解任されて、直義党であり、観応の擾乱時の守護であった三浦高通が復権。
12/25朱元璋、「明」を建国

※西暦1368年1月23日であるが、旧暦(和暦)では1367年のできごと。
※元の末期は国が乱立しており、朱元璋も1364年の時点で「呉王」を名乗るなど、どの時点を建国とするかは一見判別しにくいが、元の皇帝を内モンゴルへ追いやった時点で国号を「大明」としている。
※ちなみに朱元璋は極貧の貧農出身。「チャイニーズ・ドリーム」とも言うべきか。その性格は「聖賢にして豪傑にして盗賊」と言わしめる。粛清の激しさでも有名だが、これは中国の歴史を考えると当然の行い、か。
足利基氏
あれ、なんか具合が良くならないな、、、
上杉憲顕
基氏さまーーーー!お若いのに死んでしまうなんて、、、
桃井直常
基氏さまほどの人格者はなかなかいない。。。私はもう出家します、北朝にも籍を入れます。
佐々木道誉
金王丸さまはまだ8歳だし。。。しょうがない、私が関東にいってしばらく政務を行いましょう。
上杉憲顕
かたじけない。私も今後の鎌倉府のあり方について、道誉さんとお話したあと、実際のやり方を学びに京都に向かいますわ。
足利義詮
えっと、、、なんだか僕も調子悪いんだが。。。南朝はバカみたいなこと言ってくるし。。。
斯波義将
義詮さま、お許し頂きありがとうございます。でも、なんだか本当に具合悪そう。。。
細川頼之
そこで、私が呼ばれた、というわけですね。四国経営を順調に行っている私なら、この局面を打開できる、と。
上杉憲顕
そんなこと言ってる間に、義詮さまも死んでしまった!!
佐々木道誉
なーにー!!急いで京都に帰る!!細川どの、上杉どの、今後の幕政について話し合いましょう!!
河越直重
おっ、基氏さまも死んで、義詮将軍も死んで、なんか政局が混乱して、今、チャンス?私、相模守護を剥奪され、頭に来てるんですわ。

1368年~、「南北朝時代第3期」となります。