こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第1期④:1338年1月」です。
鎌倉を出て西に向かった北畠顕家を、上杉・桃井ら東国の足利軍が追いかけます。
さらに美濃国では武勇名高い土岐頼遠が待ち構えておりました。
後年、「関ヶ原」と呼ばれる「青野原」にて、足利軍と顕家軍が合戦となりました。
建武5年/延元3年(1338年)1月年表
1/2 | 北畠顕家軍、鎌倉出立 ※引き続き新田義興、北条時行も参加。 |
1/12 | 北畠顕家軍、遠江橋本(静岡県新居町)到着 ※上杉憲顕・桃井直常らは鎌倉を奪還し、顕家を追う。 |
1/20 | 北畠顕家軍、美濃国到着 ※足利軍は土岐頼遠(美濃国守護の七男)が美濃国での決戦を主張。くじ引きで順番に顕家軍と戦うことが決定。 ※土岐頼遠はのちに光厳上皇の牛車に矢をかけて、足利直義を怒らせて斬首されたことでも有名。 ※北条時行は「墨俣川(長良川)の戦い」で高重茂(高師直・師泰の弟)を破る。 |
1/28 | 「青野原(岐阜県大垣市・垂井町)の戦い」で北畠顕家軍、勝利! ※青野原は、古くから交通の要衝。美濃国分寺があった場所でもある。その西には不破関があり、東国から攻めてきた軍勢を迎撃する最終防衛ラインであった。(かつて「関ケ原の戦い」も「青野原の戦い」と呼ばれていた時期があった。) ※顕家は足利軍を次々と破る。しかし、最後の敵となった土岐頼遠の奮戦により激しく消耗した。 ※足利軍の敗退を聞いた足利尊氏は高師泰、佐々木道誉らを近江・美濃の国境へ派遣し、「黒血川」に最終防衛戦を敷く。(「黒血川」=現在の「藤古川」は、かつて壬申の乱で大友皇子と大海人皇子が激突した場所でもある。) ※顕家は師泰・道誉らとの衝突を避けて父のいる伊勢を目指して南下し、伊賀、大和、河内、和泉へと進む。 ※顕家が北上して、新田義貞と連携すれば勝てたのでは??と古くから議題となっているが、北への道が険しいこと、後醍醐天皇と反目した新田義貞より父のいる伊勢の方が頼れることなどから、伊勢を目指したと考えられる。 |
これより京都を目指すぞ!
わかったよー!
へー、勝てるかな?
弟の重茂もいるはずだけど。
北畠顕家に北条時行だとー?
おもしろいじゃん、ヤろうぜ。
順番はくじ引きな。
うりゃぁあぁぁぁああぁあ!
あたたたたたたたたたたっ!
つ、つよいっ!
どうだっ!
顕家はやはり強いな。
しょうがない、俺の出番かな。いくぞ、道誉どの。
しかし、時行は重茂を破るなど侮れんっ。
黒血川で構えましょう。
この川を奴らの黒い血で染めましょうぞ。
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さすがに連戦につぐ連戦で疲れたな、、
このまま相手の精兵と戦ってもこっちが持たない、、
ひとまず正面突破は避けよう、、
顕家、こっち(伊勢)じゃー
はいっ、父上ー!
あれ?越前へ行って義貞どのと連携しないのは、手柄を取られるとでも思ったのかな?
いや、こっち(越前)はこっちで足利軍に囲まれて大変、、、
しかも、雪道だし、、、
ただ、顕家どのに個人的な恨みはないが、
後醍醐天皇とは一緒に戦えない。
お父上のおられる伊勢に向かわれたのは当然であろう。
義興は義興で頑張れ。
伊勢から河内へ向かうルートもあるんでな。
河内ではワシの弟子たちがまだ頑張っておるわい。