こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第1期⑧:1338年9-12月」です。
常陸国にたどりついた北畠親房は、南朝に味方する武士たちをまとめて、北朝方に対抗します。
奥州にいる結城親房に応援を求める書状は5年間で70通にも及びました。
「神皇正統記」「職原抄」が書かれたのもこの時期です。
建武5年(暦応元年)/延元3年(1338年)9ー12月年表
9/ | 大船団、伊勢大湊(三重県伊勢市)を出航するも、大嵐に遭い各地に漂着 ※8/15出航説あり。 ※北畠顕家、新田義貞といった有力武将を失った南朝方は親王たちを地方に派遣して、地盤を築くことを目標とした。 ※義良親王、宗良親王を伴った北畠親房、顕信(顕家弟)は海路奥州へ向かう。 ※懐良親王は「征西大将軍」として、五条頼元とともに九州へ派遣。 ※しかし、宗良親王の船は遠江に漂着し、井伊谷(静岡県引佐町)の井伊氏に保護される。のち、宗良親王は信濃、越後などを遍歴する。 ※義良親王は三河国まで吹き戻される。 ※北畠親房は常陸東条浦に漂着し、常陸国の南朝方をまとめて北朝に対抗しようと考える。【偶然常陸国に漂着したのか、意図的に常陸国に行ったのかは不明】 ※鎌倉時代、常陸国の武士たちは北条氏により圧迫されており、鎌倉幕府滅亡後はそれぞれが南北いずれかに別れて失地回復を目指していた。 ※結城宗広(白河)は伊勢国まで吹き戻されており、そこで病死。 |
9/29 | 北畠親房、結城親朝(白河)に書状 ※親房は親朝に奥州に着いたであろう宗広(親朝の父)と親王を探すように命じる。 ※しかし、実際は親王も宗広も吹き戻されていた。 ※その後も親房は親朝に書状を送り続ける。(5年間で70通) ※書状は父や弟と同じように南朝に忠誠を尽くせ、という内容。 ※最初は奥州で地盤を築けという内容だったが、関東で自身が劣勢となると、関東に来て助けろ、という内容に変化。しかし、親朝といえど、本国を留守にしてよいような状況ではなかった。兵糧など、できる限りの援助は行っていたものの、親房は段々とヒステリックに。 |
10/ | 北畠親房、小田城へ。「神皇正統記」執筆開始。 ※5日、南朝方の居城である神宮寺城・阿波崎城で合戦あり、南朝方が敗退。 ※籠城していた北畠親房は小田治久を頼り、小田城へ。 ※親房は小田城にて「神皇正統記」の執筆を開始。南朝の正当性と君主のあるべき姿を論じる。(「大日本(おおやまと)は神国(かみのくに)なり」から始まる。) ※北畠親房は、官職の成り立ちや職制を記した「職原抄」も有名。(これもまた常陸国にいる間に書いた。) |
嵐でエライ目にあったけど、
常陸国は南朝が付け入るスキがある!
常陸・下野をおさえれば、奥州白河の結城家と連絡して、
一大勢力となろうぞ!!
はい、私も頑張ります。
まず、お前は親王と宗広を探し出すんじゃ!
そして、奥州の支配を安定させろ!!
それが、親王さまも父も、こちらには到着していないようです。
なに~!ちゃんと探したのかっ!
はい、、
申し訳ございません
まあいい、それよりも、こっちに加勢できるか?
申し訳ございません。こちらの状況も不安定でして、私がここを離れるわけにはいきません。
なにー!
お前の父は立派じゃった。お前の弟もじゃ。
いいか、大日本は神国なり、
そして、君主でおられる天皇とは、、(以下長文)
それなのにお前は、、
(このおっさん、こっちの話聞いてるのかな、、)
申し訳ございません、先程申し上げたように、今、ここを離れるほど余裕ありません。
おい、お前は、後醍醐天皇に対して、「忠義」はないのか?
いいか、後醍醐天皇ひいては南朝とは(以下長文)、、
(そんな精神論言われてもな、、恩賞もらえる保証もないし、、)
親房さま、せめてもの思いで、兵糧などは贈らせていただきます。
だから、忠義の心があるならば、応援に来い、って言ってんだ!!
お前、それでも宗広の子か?親光の兄弟か??
・・・
あ、既読無視しやがった!
おい、返事せい!
おい!
おいっ!
おーい
おーい
親房どの、我が城へおいでください。
かたじけない。しばらく居座らせてもらうぞ。
ちなみにこのとき「神皇正統記」が書かれました。
常陸国(=水戸)で書かれたのも、興味深いところです。
のちに成立した「水戸学」も南朝を正当としておりますしね。
その水戸学が武家政権(=江戸幕府)を倒す原動力の一部ともなるんですよねー。
あと、よく間違えられるのですが、執筆者は顕家ではなく、親房です。
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