こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第1期⑪:1341年」です。
高師冬の離反工作により小田氏治が降伏します。
暦応4年/興国2年(1341年)年表
3/ | 関東では南朝軍優勢、高師直を東国管領として派遣する構想も出る ※当時、高師直が保有していた権限の一部が足利直義に移行していたが、これは両者が不仲であったというより、東国派遣に備えて権限を調整していたという可能性もある。(「観応の擾乱」亀田敏和) |
3/24 | 足利直義、出雲・隠岐守護の塩冶高貞を謀反人と認定する ※塩冶高貞妻は皇族で、塩冶高貞自身も元々は後醍醐方。 ※南朝と通じている可能性があった。 ※京都を出奔した高貞を、直義の命を受けた桃井直常、山名時氏が追いかけ、塩冶高貞、播磨国で自刃。 ※この功績で山名時氏は出雲・隠岐・丹後の守護となる。 ※桃井直常は伊賀守護に加え、1344年に越中守護となる。 |
5/ | 「藤氏一揆」 前・関白、近衛経忠が吉野(南朝)を出奔、帰洛する。 しかし、北朝でも相手にされず、あばら家に住まわされる有様だった。 そこで近衛は同じ藤原氏の末裔である小山、小田、結城氏を誘い、北朝でも南朝でもない独自政権を樹立しようと考えた。 このクーデターは、藤原氏の末裔たちの反乱ということで、「藤氏一揆(とうしいっき)」と言われたが、結局、足並みが揃わず未遂に終わる。 ただ、それまで同じ南朝方として戦っていた北畠親房から見ればこれは重大な裏切り行為であり、激しく憤った。 なお、小山朝氏は南北いずれかへの去就を明確にしておらず、このクーデターが成功した暁には「板東管領」に据えるとされていた。 一方、弟の氏政は、北朝に与しており、小山氏も一枚岩ではなかった。(※ただし、1346年に朝氏が急逝すると、弟の氏政が家督を継いだ) |
5/ | 足利軍によって、越後国の新田氏の拠点が焼き払われる |
6/15 | 高師冬、宝篋山に陣を構える ※小田城のすぐ北で、小田氏へプレッシャーをかける。 |
10/ | 小田城内から離反者続出 ※征夷大将軍に任じられていた護良親王の息子、興良親王らが入城し、在地武士の結集を試みたが効果が薄かった。 |
11/10 | 小田治久、高師冬を城内にいれる ※高師冬の離反工作が成功する。 |
11/16 | 小田治久、降伏。 ※親房は脱出して関宗祐の関城(茨城県筑西市)に入る。その後、下妻政泰の大宝城(茨城県下妻市)や伊佐氏の伊佐城(茨城県筑西市)などと連携し、抗戦を続けた。 ※春日顕国は興良親王を連れて、大宝城へ。 ※その後、関城・大宝城などで小競り合いが続く ※北朝に下った小田治久にはその尖兵として、まっさきに戦闘命令が下された。 |
12/3 | 高師冬、小田城の軍陣焼き払う |
12/8 | 関城・大宝城、両方とも包囲される |
なんで私がこんな目に…
こうなったら第三勢力を作ってやる!
誰が何の権限も持たないお前の言うこと聞くんだ…
近衛の馬鹿野郎!こちとら、戦ってんじゃい!
水差すようなことすんな!
っていうか、それよりも、師冬のプレッシャーがすごいんですけど…
いやー、こっちも仕事ですからねー。
それより、治久くん、うちで働いた方が良くない?
南朝、足並み乱れて、落ち目でしょ?
…。
誰がお前の離反工作など受け入れるかっ!
って、え?え?
親房どの、すまん。死んで。
バッキャロー、死んでたまるか、徹底抗戦じゃ!!
In 1341, Oda Haruhisa was surrendered by Kou Morofuyu.