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☞【南北朝時代第1期⑩:1340年】『土岐頼遠、脇屋義助を美濃から追いやる』

こんにちは。

今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第1期⑩:1340年」です。

まだまだ各地で戦いは続きます。

暦応3年/延元5年(興国元年)(1340年)年表

1/-関宗祐、春日顕国ら(南朝)が反攻に出るも膠着状態変わらず@常陸

※また、同月、南朝は北畠親房に関東八カ国の成敗を委任する。
4/-幕府、武士に寺社・国衙領の横領を厳禁
4/28南朝、興国に改元

※後村上天皇即位に伴い。
5/14「暦応雑訴法」制定(北朝)
5/27高師冬、大規模な攻勢で駒楯城(茨城県下妻市)を陥落させる

※駒楯城=駒城とも呼ばれる。
※中御門実寛(南朝)は奮戦するも生け捕りにされる。
5/28南朝勢は垣本、鷲宮などに放火して抗戦、師冬は退却

※これは駒楯城陥落が南朝側の弱体に結びつかなかったことを示します。なおも戦は続く。
8/越後国で新田義宗が信濃国へ進軍

※新田義宗…新田義貞の息子。義顕、義興の弟。
※一族および越後国の軍勢を多数率いて信濃国へ。
9/19脇屋義助、土岐頼遠に敗北、吉野へ退散

※義助は美濃根尾城で籠城していたが、土岐頼遠の攻撃を受け、尾張国へ逃亡。
※義助はその後、熱田神宮の大宮司に助けられ、海路で伊勢へ行き、吉野へ。
-/-宗良親王、遠江から北陸へ退散(→のち信濃へ)

※静岡県西部の豪族、井伊行直のところに身を寄せていたが、遠江守護・仁木義長と、援軍の高師泰によって落城。北陸方面へ逃散。(1344年以降は信濃に身を寄せ、以後、30年ほど信濃を拠点とする。
※信濃は東海地区とも関東地区とも結びつきが強く当時から交通の要衝で、南朝にとって最重要拠点であった。
北畠親房
師冬ごときがどうしたー!

徹底抗戦じゃー!

高師冬
しぶといやつらじゃ…

戦は長引きそうだな…

新田義宗
父の意志をついで、私も旗揚げします。

義助おじさん、いずれ合流しましょうぞ。

脇屋義助
義宗くん、それがな…

残念ながら北陸は手放さざるを得ないんじゃ…

さらに岐阜でも苦戦しておる…

土岐頼遠
へへへ、ばーか、相手が悪かったな

In 1340, battles were going on all over Japan. Toki Yoritoo defeated Wakiya Yoshisuke and drove him out of Mino.