こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第2期③:1349年閏6月」です。
前月の「田楽桟敷倒壊事件」はこれから始まる事件の前触れだったのでしょうか、
足利直義による「高師直暗殺未遂事件」が発覚し、両者の間に緊張感が走ります。
貞和5年/正平4年(1349年)閏6月年表
閏6/1 | 足利直義、高師直暗殺失敗 ※高師直を自邸の三条殿に呼び寄せ、隠れていた武将が暗殺する手はずだったが、粟飯原清胤(あわいはらきよたね)が変心して、師直は逃亡に成功。 ※実行役は失脚させられた大高重成と、宍戸朝重(ししどともしげ)。ほか100人以上の武士も隠れていた。 |
閏6/2 | 足利直義、高師直からの報復に備える ※直義は自邸三条殿の周囲の住宅を破壊したり差し押さえしたりして、信頼できる部下を配置。自邸の防御を固める。 ※大高重成はおそらく戦略上の理由で二条京極にある吉良満義邸へ転居。(吉良満義は足利一門でも高い家格に属する) 【吉良満義】(?-1356)…三河国吉良荘(愛知県西尾市)を拠点とする足利一門の嫡男。1333年の足利高氏による後醍醐天皇討伐にも従軍。このとき、高氏の寝返りを促したのは父であり一族の長老であった吉良貞家と言われる。1334年12月には足利直義とともに新田義貞・脇屋義助と戦う。その後も各地を転戦し、直義を関東および京都でサポートする。直義の息子、如意王は満義の家で生まれたことからも両者の関係の深さが窺える。しかし、擾乱では満義が尊氏派、息子の満貞が直義派として分裂することになる。 |
閏6/3 | 僧妙吉、西国へ下向 ※僧妙吉とは、夢窓疎石が足利直義に紹介した禅僧で、直義は京都の一条戻り橋に「大休寺」を建て、妙吉から禅宗を勉強をした。 ※直義はじめ多くの武将が妙吉を崇敬する中、高師直・師泰兄弟だけは妙吉を全く崇敬せず、そのことを妙吉も快く思っていなかった。 ※そこで直義派急先鋒の上杉重能、畠山直宗は高兄弟と妙吉の不仲を利用し、妙吉をして高兄弟の悪口を直義に言わせた。 ※讒言であったにも関わらず、直義は高兄弟の悪口を信じ、師直排除を決断した。 ※そのため、暗殺失敗を知った妙吉は自分の立場が危うくなったことを悟り、足利直冬のいる西国へ逃げた。 |
閏6/7 | 将軍尊氏、三条殿を訪問し、騒動について直義と相談 |
閏6/15 | 高師直、執事解任 ※所領なども没収される。 |
閏6/16 | 上杉朝房、内談頭人に就任 ※直義派の上杉朝房が出世。このとき、まだ14歳。尊氏派の仁木義氏と交代したかと考えられる。 【上杉朝房】(1335-1391)…父は早くに戦でなくす。内談頭人就任後、尊氏の新居パーティーの幹事もさせられる。のち、直義とともに京都を脱出。その後、義父の上杉憲顕の復権とともに関東で力を示し、関東管領の座も継ぐ。 |
閏6/20 | 高師世(師泰の息子)、執事就任 ※当初、尊氏・直義は師泰を想定していた気配がある。師泰の妻は尊氏・直義の実母の妹であり、師泰は彼らにとって義理の叔父にあたる。 ※また、「建武の戦乱」で師泰は直義の副将軍を務めており、両者の関係は比較的良好という可能性もある。 ※しかし、結果的には師泰の息子、師世が就任。師世は若年であるため制御しやすいと考えたか。 【高師世】(?-1351)…師泰の息子。のちに師直・師泰とともに処刑される。 |
閏6/30 | 足利直義、騒動を光厳上皇に報告 ※「大して報告することではありませんが、政道のために高師直と須賀清秀を排除した」と報告。 |
師直さま!直義さまのところに行ってはなりませぬ!!
え、どういうこと?
直義ちゃん、そんなことするんだー。
いかん、バレたか、、、
師直の報復に備えるぞ!
さてはあの坊主が直義ちゃんにあることないこと言ったことが原因だな、、
大休寺の妙吉、あいつ引っ捕えようか、
…って、もう逃げたのか。
勘の鋭い奴め。
となると、上杉重能、畠山直宗、あいつらだけでも捕えるか。
直義ー、なんか騒がしいけど、何が起きたの?
兄さん!師直がひどいんですよ!
領地が足りない奴は周辺の寺を襲えば良いって言ったり、
天皇なんて島流しにして木で作ればいいとか言ったり!
え?師直がそんなこと言ったの?
あいつ、ああ見えて賢いから、
そんなこと言わなそうなんだけどなー。
ふーん。
師直をクビにします!
そして、師泰に!
うーん、直義ちゃん。
ま、返事は京都行ってから話すわ。
うちら兄弟の仲を裂いて、力を弱めるつもりもあるのかな?
ね、師直。
さすが師泰はわかってくれるな。
足利の坊っちゃんのために、これまで損な役回りもしてきたけど、
ちょっと今回ばかりは許せないなー。
ね、師泰。
直義は心配しなくても良いって言うけど、心配だな、、