こんにちは。
今回ご紹介しますのは、「南北朝時代第2期⑳:1352年閏2月」です。
東では新田義宗、新田義興、脇屋義治に加え、北条時行、宗良親王、北畠顕信、上杉憲顕が南朝軍として尊氏を攻撃します。
西では楠木正儀を主力とする軍が京都を攻撃、皇族たちを連れ去ります。
尊氏は一時、自害を考えるほど追い込まれましたが、逆転勝利をおさめます。
この東国での一連の戦いを「武蔵野合戦」と呼びます。
正平7年(1352年)閏2月 年表
閏2/6 | 南朝、宗良親王を征夷大将軍に任命する ※尊氏は将軍を罷免される。ここに至って南朝が武力で幕府を滅ぼす意図をもっていることが明確となる。 |
閏2/12 | 足利義詮、恵鎮上人を後村上天皇のもとに派遣して政策について交渉@摂津国住吉 ※ただ、武力征服を目指す南朝にとっては政策などどうでも良かった。時間を稼がれる。 |
閏2/15 | 後村上天皇、摂津国天王寺に移動 新田義宗・新田義興・脇屋義治ら、上野国で挙兵、同日中に上野国を平定 ※南朝総帥・北畠親房は京都と関東で同時に軍事行動を起こすことで一気に幕府を滅ぼすことを画策した。 ※正平一統は破綻。 |
閏2/16 | 新田義宗ら、武蔵国に侵入 |
閏2/18 | 新田義宗ら、鎌倉に攻め入る ※足利尊氏が武蔵国神奈川に転進する ※この頃、宗良親王が信濃国で挙兵し、碓氷峠まで進出 ※北畠顕信(親房次男)、陸奥国白河関に進撃 |
閏2/19 | 後村上天皇、石清水八幡宮に入城 ※難攻不落の軍事要塞としても知られる。 |
閏2/20 | 楠木正儀を主力とする南朝軍が京都侵入 (5月までの一連の戦いを「八幡の戦い」or「第4次京都合戦」と呼ぶ) ※細川顕氏ら幕府軍が迎え撃ち、七条大宮で激戦。 ※南朝軍が勝利。幕府方侍所頭人・細川頼春戦死。 ※足利義詮、近江国へ逃亡。 ※三条殿は焼き払われる。 足利尊氏と新田義興の軍が武蔵国人見原・金井原で激戦となる ※薬師寺公義(尊氏方)がここでも活躍。 |
閏2/21 | 南朝、光厳上皇・光明上皇・崇光天皇・直仁親王の身柄を拘束し、八幡へ連行 ※三種の神器も天皇も失い、北朝は一時的に完全消滅 |
閏2/23 | 新田義興、北条時行と鎌倉を出て、三浦半島へ赴く 足利義詮、正平元号の使用をやめて「観応」に復号 |
閏2/24 | 近江国四十九院あたりにいた足利義詮に美濃守護・土岐頼康が合流 |
閏2/28 | 足利尊氏と宗良親王・新田義宗の軍が武蔵国で激戦 ※小手指原には畠山国清、入間河原・高麗原には足利尊氏、仁木頼章、薬師寺公義が出陣。 ※尊氏は一時、切腹を覚悟するほど追い込まれた。 ※仁木頼章、義長兄弟の活躍もあり尊氏が逆転。 新田義興は鎌倉へ攻めこんでおり、南宗継・石塔義基などを駆逐。 ※石塔義基は石塔頼房の兄であるが、尊氏派。 その後、武蔵国笛吹峠で尊氏軍と義宗軍の間の最終決戦が行われる。 ※新田方には上杉憲顕も参戦。尊氏方にも関東の武士たちが駆けつけ大激戦となったが尊氏勝利。 ※上杉憲顕は信濃へ、新田義宗は越後国へ没落。 ※関東における一連の戦いを「武蔵野合戦」と呼ぶ。 |
え、、
父上が征夷大将軍やめさせられるって、、
南朝さん、なにやってんの??
ちょっと話し合いましょう、、
だから言ったろw
やつらの考えることだ、
今に東西両面で戦いになるから覚悟しておけよ^^
えええ、、
なんかもう大軍が忍び寄って来てる、、
そっか。
こっちはもう始まってるよー。
新田の息子たち、さすがに骨があるわ。
久々の登場です。
https://nihonshi.me/1340-2/
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こっちには力強い味方もいるんでな。
やあ、尊氏、久しぶり。
「逃げ上手の若君」とは僕のことさ。
「逃げ上手の若君」とは僕のことさ。
思う存分暴れまわってやろうじゃないか。
一番厄介な相手だな。
北条を滅ぼした新田。
その息子同士が手を組む日が来るとは。
わしの息子、宗良親王も忘れなくな!
いけー!狙いは皇族と義詮だー!
若、ここは私に任せて、上皇たちを連れて近江に逃げてください!
あわわわわ。
まさかこんなことになるとは。。。
義詮くん、私たち、もう捕まってしまったよ、、
どうすんの??ちゃんと守れないで、、、
わはははは。
三種の神器もないうえに皇族もいない北朝にはもはや正統性がない。
東西一気にケリつけるぞ!
もう連戦につぐ連戦で疲れてるけど、、
お前らの好きなようにはさせん!
尊氏さま、安心して下さい、
今に形勢逆転させてみせます。
頼章、かたじけない。
なんせ時行には一杯食わされた。。